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挿絵(By みてみん)


スバル 4


スバルにとって、この年の夏の思い出は、一生のうちで一番輝くことになる。

生まれて初めて、この世に生まれた幸いを毎日感謝する日々の連続。そして、今まで味わってきた苦痛の泥が、少しずつ確実に洗い流されていく実感に、スバル自身驚きを感じていた。

ただ何も言わず見守る祖母と、スバルを癒す山間の空間と、そして伸弥の存在が、スバルに喜びや楽しみの感受性を取り戻させた。


あの日から、スバルは今まで以上に早く起きて、手早く仕事を終らせようと懸命に働いた。

祖母には伸弥のことも話し、失くしたにわとりの代わりにたくさんの魚を持ち帰るからと説得した。祖母は問いただすことも、止めようともせず、命じた仕事を片付けたら、後は好きにしてもいいと言ってくれた。

その日の天候や、やりこなす仕事の量によって、毎日河原へ行けるわけではなかったけれど、今のスバルには明日を期待する喜びに満ち溢れている。

日常の厳しい仕事も、伸弥と会える時を思うと少しも辛く感じない。

夜空を眺め、明日の天気を占い、静まり返る長い夜も、伸弥を思いつつ夢を見ることができる。

そして、確実に希望の朝が来るのだ。


十時を過ぎる頃、釣竿と魚を入れる麻袋を持って、スバルは待ち合わせの河原へ急ぐ。

大概伸弥の方が先に来て、渓流に釣り糸を垂らしている。時には網も川に投げ、魚を獲ることもある。

だが、ふたりには魚釣りよりももっと大切なことがある。


約束通り、伸弥はスバルの為に教科書と問題集を用意した。

ふたりだけの河原での授業を、スバルはどれだけの感動を味わったことだろう。

教えてもらう事、知らなかった世界、歴史、物事を知る事、そしてなにより伸弥という年上の友人への尊敬と信頼を信じることが出来た事。


昼には伸弥が持ってきた弁当を、仲よくふたり並んで食べる。

伸弥はスバルの分も必ず持参し、毎日飽きないようなメニューでスバルを喜ばせた。

とりわけ、ニッポン風の味付けは、スバルを感動させ、自分の分までを勧める伸弥に恐縮しながらも、子供の素直さであっという間に平らげた。

スバルは何度も伸弥にお礼を言う。

伸弥は「どういたしまして。スバルが嬉しいと僕も嬉しいんだ」と、返してくれる。

そういう伸弥に、スバルはまた感動するのだ。


『このままずっと…伸弥さんの傍で過ごすことができるなら、僕はどんなに幸せだろう。ああ、そうだ。どんな理不尽なことだって、伸弥さんのためになら…僕はなんだってできるんだ』


当時、スバルはアルトとイルトの関係を知らない。

伸弥の持つイルトの波動と魔力を持ったアルトであるスバルの波動が引きあったのかもしれない。


ともあれふたりはまたたく間に、親密な美しい友情を交し合った。



「あの…いつも教えてくれてありがたいと思うんだけれど…、伸弥さんは自分の勉強とか…しなくていいの?」

「え?なんだ、スバルはそんなことを心配してくれていたのかい?大丈夫だよ、スバルに教える責任っていうか…結局教える知識を持つために、僕自身も勉強するわけだしね。スバルを教えていると、なんだか人を教える楽しみってこういうものかと実感するよ。将来は先生の道を考えてもいいって」

「伸弥さんなら、きっとなれるよ。素晴らしい先生に。ぼ、僕が保証するから」

「スバルが保証してくれるのなら安心だ。スバルはとても良い生徒だしね」

「そ、んなことないと…思うけど…」

伸弥はスバルを褒める。

些細やことでも「よく頑張ったね。えらいよ、スバル」と。

今まで褒めてもらったことなどないスバルに、伸弥の言葉は勇気とやる気をくれる。

だからスバルは一生懸命に勉強した。


だが、スバルは伸弥が自分を親切にしてくれる本心がわからなかった。

伸弥は一体自分に何を期待しているのだろうか…

なによりも、自分が伸弥の役に立つ時が来るのだろうか…と。


或る日、スバルは恐る恐る疑問を投げかけた。

伸弥はしばらく黙り込んだ。

その沈黙をスバルは怖れた。聞かなければよかった、と、後悔した。

伸弥はスバルの顔を見つめ、少し微笑んだ。

「おはぎ、美味しいかい?」


昼飯が済んだ後、デザートにと伸弥が持ってきた曲げわっぱにはおばぎが綺麗に並べられている。

初めて見るこの黒い奇妙な蒸した餅菓子を口に入れた瞬間、スバルはあまりの美味しさに声が出せなかった。

伸弥はその様子を楽しそうに眺め、「全部スバルにあげるよ。おばあちゃんにも食べてもらえよ。うちにはまだ沢山あるから」

「い、いいの?」

「ああ、今日は、妹の月命日だからね……あの子はおはぎが大好きだったんだ」

「…妹?」

「そうだよ。去年、八歳で死んでしまった妹…スバルはね、その妹に似ている…」

「…」

「スバルと同じ僕よりも四つ下で、スバルに似て優しくて綺麗な顔をしていたけれど、痩せててね。オドオドして…周りに気を使って小さくなって、いつも部屋の隅っこで泣いていたんだ。僕はそんな妹が不憫で可哀想で、でもとても愛おしくてね…妹は僕にだけは甘えてくれた。…僕だけしか味方がいなかったからだろうけれど……」

「なぜ、伸弥さんしか味方がいないの?」

「妹は…鈴子は父の愛人の子供で…愛人ってわかる?」

「うん、なんとなく…」

「鈴子の母親が死んで、六歳の頃、うちへ連れてこられてね。何も持たずにたったひとりで…。父も母も鈴子に冷たかった。使用人たちも母の命令で鈴子には構うことが出来なかった。可哀想な鈴子は、学校にも行かせてもらえずに…いつもひとりぼっちだった。だからスバルを見た時、鈴子に似ているスバルに、優しくしたいって思ったんだ」

「そう、なんだ」

「ゴメン。死んだ者の代わりだなんて、気持ち悪いだろ?スバル、気を悪くしないでくれよ」

「そんなことない!僕、伸弥さんの妹に似てて…すごく嬉しいよ」

スバルは少しだけ伸弥の本当の心の触れたことが嬉しかった。そして、その妹に似ていたことを幸運だと心の底から喜んだ。


「でもさ、見かけは似ているけれど、スバルは妹よりもずっといい子だよ」

「え?」

「鈴子はあれで気が強くてね。大きくなったら、こんな家なんか出て、頑張ってひとりで生きてやるんだ!って、いつも僕に言ってた。だからその日が来たら、ふたりで一緒にこの村から出ようって、僕らは誓い合ったんだ…そんな日が必ず来ると、僕も信じていたのにね…」

「…伸弥さん」

まだ幼いスバルには、伸弥の複雑な悲しみは理解できなかったけれど、スバルは慰める言葉を探し出そうと懸命になった。


「伸弥さん、僕…妹さんの代わりになれるように…頑張るから、何でも言ってね。僕…伸弥さんの為なら、なんだってするよ。い、妹になれって言うなら、僕、妹みたいになるから…」

「スバル…」

懸命に伸弥の為に自分を捧げようとするスバルの無垢で純粋な気持ちは、伸弥にはとても耐えられなかった。

伸弥は泣きそうな自分の感情を押し殺し、スバルに微笑み、たった一言だけ答えた。


「ありがとう」

それはスバルには十分すぎる返事だった。




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