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スバル 3


少年は、仁科伸弥にしなしんやと、言う。

スバルよりも4歳年上の中学二年生で、この村一番の地主の息子だった。

祖母の家の土地も田畑も、地主の仁科家のものだ。

だが、その時スバルはそんなことは知らないし、この土地で他人に声を掛けてもらったのは初めてだったから、好奇心と猜疑心で戸惑いを隠せなかった。


「君、そこにいたら流れに足をすくわれて、危ないよ。さあ、僕の手を取って」

川は思ったよりも浅瀬で、中央でもスバルの腰まで届かない水位だったが、流れは早く、気を抜いたらすべり転びそうだった。

差し出された細く長い腕に一瞬躊躇うスバルだったが、麦わら帽子の影になった伸弥の爽やかな笑顔に惹かれ、伸弥の手を素直に掴み、ゆっくりと対岸に引きずられた。

河原に立ったスバルの緩いズボンはずぶ濡れた重みで脱げそうになり、スバルはあわてて引き上げる。

「酷い格好だ。水浸しじゃないか。夏だからってそのままじゃ風邪引くぞ」

「…だいじょうぶ…です」

「子供のクセに遠慮なんかするなよ。ほら、服を脱いでこれで拭けよ」

首に掛けていたタオルを伸弥は、スバルの濡れた頭に広げた。

タオルからは仄かにシャボンの香りがする。スバルはさっきまでの絶望的な気分から少しだけ救われる気がした。


言われるままにシャツとズボンを脱ぎ、伸弥から貰ったタオルで身体を拭くと、腹の虫がギュウと鳴いた。

「なんだ?すごい音が聞こえたぞ。腹が減っているのかい?」と、伸弥が笑う。

スバルは恥ずかしかったが、素直に頷いた。

「ちょうど良いものがある。ここに座りなよ。ほら、サンドイッチだ。釣りに行くと行ったら、女中が気を利かして持たせてくれたんだ」

「…」

スバルはおそるおそる伸弥の隣に腰を下ろし、伸弥の膝に抱えた籐籠を覗き込んだ。

籠の中には、綺麗に並んだサンドイッチが見える。

「僕も腹が減ったから一緒に食べよう」

「…でも…」

「遠慮しないの。ほら、食べな」

「…ありがとう、ございます」

手渡してくれたサンドイッチがキラキラ輝いて見える。スバルはしっかりと両手で掴み、それを口に入れた。


「一緒に食べよう」と、伸弥は言ったが、サンドイッチのほとんどをスバルは一人で食べてしまった。

それに気がつかない程にスバルの腹は減り、そしてあまりの美味さに夢中になっていた。

伸弥はスバルの姿を、憐憫と好奇心で興味深く眺めていた。


「那賀さんのおばあさんのところに外国から来た男の子がいるって聞いたけれど、君だろ?」

「…うん」

「名前は?」

「…スバル」

「那賀さんのお孫さん?」

「…うん、そう」

「もっと違和感があるのかと思ったけれど…案外東洋系なんだね。まあ、母親はここの出身だろうし…お父さんはどちらの人?」

「…よくわからない」

「そう…」

スバルの本当の父親がどんな人だったのかは、誰からも教えてもらったことはない。写真すら見たことはなかった。

誰がスバルの父親かなど、スバルも大して気にしてはいなかった。


「気になったんだけど…スバル、君さ、ご飯、食べさせてもらえなかったの?」

「…」

「学校にも行ってないって噂では聞いたけれど…身体もガリガリだし、食事もまともにさせてもらってないなんて…それって虐待じゃないのか。大問題だよ。警察に連絡してやろうか?」

「ち、違うよ。ちゃんと食べているよ。今日は…僕の所為で…僕がぜんぶ悪くて…ばあちゃんは悪くないもん」

「スバルの所為って?」

「…」

心配そうに見つめる伸弥の顔は、本当にスバルを思ってのことだろうか…

スバルは少しだけ迷ったが、今朝の話や学校へ行けない事情をぽつぽつと伸弥に告白した。


元来スバルは人と喋ることは苦手だった。

母たちからは無口でいることを要求され、自分から何かを話しかけたりすると、即座に怒鳴られた。

世の中がそういう人ばかりではないことは、育つに連れてわかってきたが、人の顔色を伺いながら会話をするくらいなら、黙っている方が楽だと感じていた。

だから今、暮らしている祖母との会話がほとんどなくても、スバルには苦痛に感じなかった。


要領よく話せないスバルを、伸弥は急かすでもなく、「ゆっくりでいいよ」と、持っていた水筒のお茶を与え、時にはうんうんと、相槌を打ちながら見守り続けた。

スバルが言葉に詰まると、「スバルはえらいね。外国で暮らしてきたのに、日本語がとても上手いよ」と、褒めてくれる。

だから、スバルは話を聞いてもらおうと一生懸命に続けた。


「…そうか。それは大変だったね。…僕が周りから聞いた話では、君のおばあさんは早くにご主人を亡くしてね。男の子がいたらしいけれど、その子も小さい頃に亡くなって…。君のお母さんも勝手に家を飛び出してずっと連絡がなかったみたいなんだ。男手がないと、農作業は大変だしね。なかなか貧しさからは抜け出せないよ」

「…ばあちゃん、かわいそう…」

「…スバルは優しいね。ご飯抜きって言われたのにさ。おばあさんを思ってあげるなんて」

「だって…。僕がここに来なきゃ、ばあちゃんはひもじい思いをしなくて良かったし…にわとりだって…」

スバルはまた自分の迂闊さを悔やんで、泣きそうになった。いくら謝っても死んだにわとりは生き返ったりしない。…魔力を使っても。


「にわとりの代わりに魚をたくさん捕って、おばあさんに持っていくっていうスバルのアイデアはとても良いと思う」

「ホント?」

「うん、僕も手伝おう。今の時期はイワナやニジマス、ヤマメも釣れる。沢山釣って、おばあさんに持って帰れば、きっとスバルを許してくれるよ」

「ホ、ホント?」

「ああ、きっとね。だからスバル。家の仕事は忙しいかもしれないけれど、暇を見つけてここに来いよ。もうすぐ夏休みだし、僕も時間がある。学校に行けないのなら、僕が使っていた教科書を君にあげる。わからないところは教えてやってもいい。おやつも持ってこよう。おにぎりやパン、饅頭や果物も。どうだい?スバル」

「…そんな…」

スバルは伸弥の申し出を聞いて、一瞬夢のようだと心を躍らせたが、すぐに警戒した。

なぜ伸弥が自分にそこまで親切にしてくれるのかが、全くわからない。と、言うよりむしろ怖かったのだ。


「嫌かい?」

「いいえ、とっても嬉しいけれど…。僕、代わりに差し上げるものはひとつもありません。だから、あの…」

「そうだね。タダより怖いものはないものね。まあ、タダじゃないよ。僕にだって、見返りがあると見込んで、君に親切にしてあげようと企んでいるんだよ」

「え?」

「僕はね、生まれてこの方、この村から出たことがない。まあ、買い物に街まで出かけたりはあるけどね。僕はこの田舎暮らしに飽き飽きしているし、一刻も早くこの村から出たいんだ。中学を卒業したら、街の高校へ進学して外国の大学に留学しようと思う。そして世界中を旅して、この目で色んなものを見たいんだ。だから外国から来たと言う君に、今まで暮らした街の様子とか、外国の言葉とかを、僕に教えて欲しいんだ」

「…」

スバルは不思議に伸弥の顔を眺めた。


こんなに素晴らしい自然に囲まれたところ、他の場所になんて滅多にないのに…。他所よりもずっとここがステキなのに…。


「スバルはどんな国にいたの?」

「え…あ、地中海の南の方とか、インディアとか…パルティアの山にも住んだことがあるけれど…」

「すごいじゃないか」

「でも、お母さんの…付き合ってる男の人は、あまり良い仕事をしている感じじゃなかったから…いつも警察とか、組織とかから逃げ回ってた。…悪い商人…なんだって」

スバルは麻薬密売人について深く知ることはなかったが、危険なものであることは嗅ぎ取っていた。できればそういう世界から母を救いたかったけれど、幼いスバルに何ができるわけでもなく、なにがあっても母の傍から離れない事ぐらいしか考えが及ばなかった。


結局、おかあさんは僕をここに捨て、あの男と一緒に悪い商売を続けているのだろう。…僕はおかあさんを救うことも、できなかったんだ…


スバルはまたグスグスと鼻を啜った。

「身体が冷えてしまったかな?ほら、僕のパーカーを貸してあげるよ」

伸弥は枝に掛けていた上着をスバルの肩に掛けた。スバルは驚いて伸弥を見上げた。

今までこんなに優しくしてもらったことなど、一度だってありはしなかった。

「ねえ、僕との取引に納得してくれた?」

スバルは伸弥の親切な言葉に何度も頷いて答えた。


「さあ、スバル。腹が膨れたら早速魚釣りだよ。沢山釣っておばあさんに喜んでもらおうよ」

「う、うんっ!」

伸弥の励ましに、スバルは元気よく立ち上がり、釣竿を持った伸弥の後を追いかけた。



午後になり、藁に繋いだ10匹以上の川魚を持って、祖母の家に帰ったスバルは、にわとりの件を何度も謝り、これからしばらくは魚を釣って食料を補うからと祖母に相談した。

祖母はスバルの持って帰った釣りの成果を怪訝に見つめたが、なにも言わず、それを受け取った。

その晩のヤマメの塩焼きは格別に美味く感じられ、スバルは心の中で何度も伸弥にお礼を言った。


伸弥さんみたいないいひとに巡り合えて、僕は幸運だな。

伸弥さんの為に、僕の魔力が役立つ日が来るといいなあ。

伸弥さんの為なら、僕はなんだって…なんだって、してあげたい…


眠りにつくその夜は、目を開けても閉じていても、スバルの頭に浮かんでくるのは、伸弥の眩しい笑顔だった。


挿絵(By みてみん)

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