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スバル 2
田舎の朝は早い。
陽が昇る前の、薄暗がりの早朝に起き上がり、まずは水汲みから始まる。
竈の火を起こし、朝粥の支度を終えたら、にわとりの世話と卵の回収。
取り急ぎ朝食を終えたら、片づけに家の掃除。
祖母が田んぼへ働きに出ている間は、スバルは庭畑の草むしりと、裏山で薪を集める。
陽が落ちる前に祖母と侘しい夕食を取り、陽が暮れると同時に寝る。
祖母の家は貧しかった。
電気を付ける余裕さえない。カンテラの油も蝋燭ももったいないという理由で夜になると何もできず、寝る他は仕様がない。
だんだん畑も家の土地も、地主からの借りもので、毎月の取り立てを払うには、取れた野菜や機織り業で稼ぎ、毎日を何とか食いつないでいる状況だ。
スバルがここへ来た初日に祖母が吐いた言葉は、スバルを養う余裕などは無いと言う、祖母の切実な溜息だった。
スバルはこのような空気をよく悟っていた。
今までに一度だって、腹いっぱいなるまで何かを食べたことがあるだろうか。欲しいと思ったものが手に入ったことがあるだろうか。
9歳のスバルは自分の置かれている立場を知っていた。だから少しでも祖母の役に立って、祖母の負担を軽くしようと、慣れない土地で懸命に働こうと思っていた。
確かに初めて味わうニッポンの生活様式に戸惑うこともたびたびあったが、スバルにとって、ここでの暮らしは今まで味わってきたどの世界よりも面白く、またやりがいを感じていた。
特に畑の仕事などは、懸命に世話した野菜が、一日一日と確実に育つ様が自分の目で確かめることができる。
一枚の葉っぱの成長が、スバルには感動的だった。
そして、今まで厄介者扱いで、けなされ続けていた自分の存在を少しだけ認めてやりたくなった。
祖母は無口で愛想も無かったし、会話は仕事の段取りを教える事と、やってはいけないことを叱ることぐらいだったが、叩かれないだけでも随分と気持ちが楽になり、スバルはここでの暮らしに満足していた。
二度ほど、スバルを小学校へ通わせるようにと村の役場の者と学校の先生方が祖母に相談に来たことがあるが、この状態で学校へ行けるとはスバルも思っていない。
孫への愛情云々より、毎日の糧が問題なのだ。
それにスバルも祖母に役に立てるのなら、学校などどうでも良かった。今までだって一度たりとも学校へなどは、行かせてもらったことなどないのだから。
夜、寝る時に着る綿の寝間着は、母が幼い頃に来ていた浴衣の古着だと祖母から渡された。
紺地にツユクサと蛍が描かれた寝間着を着ると、抱かれた覚えのない母の匂いや温もりが伝わるようで、スバルは安らぎを感じた。
時折見る昔の夢は、スバルを苦しめたが、目覚めると虫の声やにわとりの鳴く声が聞こえるばかりだ。
あの罵声は今はない。
スバルは安堵感に涙が出た。
ここに居る間は、痛い目に合うことはないだろう。
ある朝、珍しく祖母が大きな声をあげて、スバルを呼んだ。
スバルは急いで庭へ向かうと、垣根の前で立つ祖母に走り寄った。
「スバル、昨日、にわとりを小屋へ戻した際、小屋の閂はちゃんと閉めたかい?」
「…うん」
昼間、庭の中で飼っている13羽のにわとりは夕方、鶏舎へ戻される。
にわとりの世話はスバルの役目で、産んだ卵を集めるのも、鶏舎の中を掃除するのも、にわとりを鶏舎へ戻すのもスバルの大事な仕事だった。
昨日もいつものようににわとりの数を確かめ、閉めたはずだ。
「今朝見たら、戸が開けっ放しになっていた。…にわとりは6羽しかいない」
「え?」
「ここに羽が沢山散らばっているだろ?狐か狸か狼か…にわとりを食う獣は山には沢山いる」
「…た、べられたの?」
「6羽でも無事だったのはまだマシだったんだろうけど…スバル、これはおまえの責任だよ。おまえの所為でうちの大事なにわとりを食べられてしまった。一体どうしてくれるんだ?」
祖母の声は静かだったが怒りに満ちていた。スバルは恐怖と動揺で謝る言葉さえ出てこない。
「…今日一日、おまえの飯は抜きだ」
祖母はそう言い放ち、急ぎ足で炊事場へ戻り、戸を閉めてしまった。
青ざめたままのスバルは、途方に暮れてしまう。
…ど、どうしよう…僕がちゃんと閂を確かめなかったから…。大切なばあちゃんのにわとりを僕は、見殺しにしてしまったんだ。どうしよう…土下座をして何回も謝れば許してくれるだろうか…
スバルは閉められた裏戸を見つめた。
多分、今、祖母の前で頭を下げても許してはくれないだろう。
前に古本屋のチェトリじいから聞いたことがある。
怒っている相手には何も言うな。振り上げた拳が下がるまで、少し離れて様子をみるのが一番いい方法だ、と。
もっともこの方法は母の愛人の男には通用しない。
意味もなく殴ったり、叩くのはあの男の趣味だったのだから。
スバルは、家の門を出て、当てもなく歩き始めた。
今日一日は祖母と顔を合わせるのを避けた方が良さそうだ。
実際のところ、にわとりの代わりに別な何かを探さなければ、祖母もスバル自身も餓えることになるのだ。
裏山で薪を拾うにも腹が減って力が出ない。
スバルは裏山を超えて林を抜け、渓流が見える崖を降り、清流に口を付けて思いきり飲んだ。
しかし水で腹が膨れるわけもなく、岩に腰を下ろしたまま溜息を吐いた。
最悪の場合、ばあちゃんは僕を見捨ててしまうかもしれない。お母さんに連れ戻すように連絡するかもしれない。そしたらあの男がまた僕を打つかもしれない…
最悪の連鎖がスバルに悪夢を思い出させた。
スバルは右腕に残るケロイド状の痣を見つめた。
ここへ来るひと月前に母の男から思いきりタバコの火を押し付けられた痕だ。
スバルは左の掌をその傷跡に当て軽く掴み、そして離した。
ケロイドのように残っていた痕は、綺麗に無くなっていた。
スバルは魔法使いだ。
母の愛人はスバルが覚えているだけで今までに三人ほどいた。そのどれもがスバルを罵倒し、暴力を奮う奴らだった。
だがどんな暴力がスバルの身体に与えられても、翌日には痛みは消えていた。
その頃のスバルはそれが魔力だとは気づかず、誰もがこのようなものだと思い込んでいた。また母も男もスバルの状態に興味を持たなかったので、スバルが魔力を持つ者だとは気づかなかったのだ。
だがいくら早く傷が治ったとしても、暴力を与えられる瞬間の痛みは普通の者と同じく、耐え難い苦痛を感じる。しかも身体の傷は治っても、恐怖心や痛みの記憶は心に積もっていくのだ。
7歳になる頃、その頃に住んでいた下町の古本屋の店主とスバルは親しくなった。
チェトリと言う老人は、スバルの事情を察し、パンやお菓子などをくれた。また学校に行かせてもらえないスバルに文字を教え、本を読む喜びを教えてくれた。
ある時、本を整理していたチェトリの乗っていた脚立が壊れ、腐った脚立の木の破片がチェトリの右足の脹脛に刺さり大怪我をした。
居合わせたスバルは木の破片を抜き、脂汗を掻き青ざめるチェトリに声をかけた。大量に流れ出る血に驚き、なんとかしなければと、チェトリの脹脛を懸命に両手で押さえた。
すると出血は止まり、痛みに耐えるチェトリの顔色が赤みを帯びてきた。
包帯を巻き、一息ついたチェトリはスバルにお礼を言うより先に、大事な話を聞かせた。
即ち、スバルが魔法使いだということを。
「ぼくが…魔法使い?」
「そうだよ。スバルは確かに魔法使いだ。魔法使いは今ではアルトと呼ばれることが多い」
「アルト?」
「さっきおまえが私の怪我を瞬く間に治してくれただろう?あれが魔力だ」
「ぼく…どうやったがわからないよ。ただいっぱい血が出てたから、止めなくっちゃって思って…」
「スバルの両手からとてもあたたかいエネルギーを感じたよ。癒しの魔力だろう」
「…」
その時、スバルは知った。自分の傷が翌日には消えてしまうのも、もしかしたら魔力の所為かもしれない、と。
「…それもスバルの力だと思う。無意識のうちに魔法で自分の傷を治癒していたのだろう。でもね、スバル、恐れることはないよ。魔力を持った人間はこの世界には沢山いる。私も今までに何人も見て来たし、信頼できる友人もいる」
「…ほんとう?」
「そうだよ。魔力は神さまから与えられたプレゼントだと思えばいい。さっきみたいに困った人を助けてあげたりすることは、とても素晴らしいことなんだよ、スバル。でもね、気をつけないといけないことがある」
「なに?」
「悪い者たちがスバルの魔力を知ったら、それを悪用してしまうかもしれない。だから、スバルが大人になるまで…スバルのことをちゃんと理解してくれる人が現れるまで、魔力のことは誰にも知られない方がいいだろう。特に人前で魔法は使ってはいけないよ…わかったかい?」
スバルはコクリと頷いた。
チェトリの言葉は、生きのびる為の鍵のような気がしてならなかった。
これを開ける者を見つけだすまではスバルは魔法を使うまい、と心に誓ったのだった。
自身が魔法使いと知った後、スバルは男の暴力に対して、今までとは違った恐怖を持つようになった。自分の怒りに任せて、自分を打つ相手に魔力を使うかもしれない…と、いう恐怖だ。
スバルは人を傷つける魔法の力など知らない。だけど、もし「死ね」と、願ったら目の前の男は死んでしまうかもしれない。
そうなったらスバルは人殺しだ。
チェトリの言った「魔法は人を助けるための力」とは、逆の意味になる。
それからスバルはどれだけ打たれても、感情を押し殺し、痛みに耐えてきた。
しかし、それも…
ここでの生活を知った今、打たれるのを我慢する日々なんてもう僕には無理じゃないのか?もし、ばあちゃんが許してくれなかったら…僕はここから逃げて…誰も知らないところへ…
ふと、せせらぎにつけた足元を見つめると、川魚が流れに逆らいながら泳いでいるのに気がついた。
アユだろうか、ヤマメだろうか…
スバルは魚には詳しくない。だけどこの魚を捕り、家へ持ち帰ったら、少しは祖母の怒りが静まるかもしれない。
スバルはそっと腰をかがめ、川の中を歩き回った。
魚影に気がつくと全身で飛びついた。おかげで頭までびっしょりに濡れる。
スバルはずぶぬれになるのも構わずに、魚に向かって何度も掴み取ろうと試みたが、一匹も捕れないまま、夏の陽が高くなる。
「釣竿も網もなしに捕ろうとしても、無理だよ」
対岸で釣竿を持った少年が、スバルを見て笑っている。
少年は慣れた手つきで釣竿を放ち、何度も空中に釣り糸を投げては戻している。
繰り返し同じ仕草で竿を振り込みながら少年は、川の中央へ足を進め、そしてじっと竿をおろした。
僅かに糸が引き魚が掛かったことがわかると、竿を右へ左へ流しながら、ゆっくりと糸を引き寄せる。そして川から釣れた魚を引き上げて、スバルの方へ向って魚を見せつけた。
スバルはこの少年の一連の姿に、見惚れてしまった。
「こっちへおいでよ」と、少年が呼ぶ。
スバルは引き寄せられるように、その少年に向かって川底を歩きだした。