最終話
11、
いつの間にかスバルは、先程とは違う場所に居た。
学園の寄宿舎の屋上でもなく、夜の闇に埋め尽くされてもいない。
辺りは薄霧霞み、よく目を凝らしてみると緑の木々に覆われている。あまり足場の良くない足元が頼りなく、スバルは手を繋いだアーシュに引かれ、幾分霧の晴れた場所へ移動した。
…絶え間なく浅瀬をせせらぐ水の音と、軽やかな鳥たちの歌声に、スバルは目を閉じた。
『ああ、間違いなくここは…あの故郷の…伸弥さんと過ごした夏の日の河原だ…』
「スバル、来たよ」
耳打ちするアーシュの声に閉じていた目を開け、アーシュの指差す先を見つめた。
木々の間からちらちらと青い火の玉が浮かび上がり、だんだんと人の形の輪郭を鮮明に表していく。
「…伸弥…さん…」
スバルはその人影の名を呼んだ。
驚きと嬉しさのあまり、一歩も動くことができない。ただ、自分に近寄る伸弥の姿を溢れる涙を拭きながら見つめていた。
伸弥は4年前別れた頃よりも、遥かに大人になっていた。勿論スバルは成長した伸弥の写真を見ていたし、何ら変わらぬ姿だったが。
けれど写真と、目の前に現れる伸弥では比較にならない程の現実感がある。
「…会いたかったよ、スバル」
「…」
「随分と成長して、大きくなったね」
昔と同じに穏やかに笑う伸弥の顔に見惚れた。伸弥の頭から足までを順に眺めて、気づいた。怪我で失くしたはずの右足が存在する。
「伸弥さん、足…」
「ああ、僕も驚いたんだけど、死んだ後は、本当の姿を保てるみたいだ。なんかちょっと慣れなくて変な感じなんだ」
「そう」
両足のある伸弥に、スバルは心の重みが少し軽くなった気がした。スバルにとって、伸弥の足を失くしたことへの罪悪感は未だにぬぐえ切れなかったのだ。
「さ、わっても…いい?」
伸弥は黙って首を少し横に振った。
「ああ、大丈夫だよ。その人は死んだばっかりで、魂も新しいから、生きてた頃の身体の記憶が鮮明だろうから、触っても実感があると思う。時間が経つほど魂の記憶が薄れ、姿は見えても触ったりできなくなるんだって…。って、おいっ、聞いてる?」
隣のアーシュに見向きもしないで、スバルはそっと目の前に伸弥の顔に指先で触れてみた。
「…」
実感はある。皮膚の弾力も色も血の通ったそれと変わらない。だが、体温は感じられず、伸弥の肌は氷のように冷たかった。
「…大丈夫だよ、スバル。ほら、まだ、生まれたばかりの幽霊だから、体温調節が上手くできないだけで、そのうち、少しは温かくなれると思う。冷え切ったスバルの身体を温められるかどうかは…自信ないけれど…」
「あのさ、一応忠告しておくけど、セックスはできねえから」
「了解しました。偉大なる魔王アスタロト。スバルに会わせて頂いたことを感謝いたします」
「…別にそれはいいよ。スバルは友達だし…それより、あんたはスバルに残してやらなくちゃならないことが、沢山あるはずだろうから…」
「はい」
伸弥は丁寧にアーシュに頭を下げ、なにもかも了解したと言う風に頷いた。
「じゃあ、俺、あっちの方で魚釣りでもしてるから…あんまりゆっくりはできないと思うけれど…存分にいちゃつけ!」
「ありがとう」
ふたりから離れてアーシュは河原へ駆けていく。コートも脱ぎ捨て、パジャマの裾を上げ、捨ててあった釣り竿を拾うと、ばしゃばしゃと浅瀬の中へ入っていく。
「スバルに頼れる友達が居て、安心したよ」
「…アーシュは…友達じゃないよ。僕が…僕を心配して付き合ってくれただけ…」
「それが友情だろ?」
「…」
スバルは自殺しようとして、アーシュに止められたことを言えなかった。しかし考えればアーシュはスバルが思うよりも親切なのは確かだ。
「…伸弥さん、アーシュを知っているの?」
「え?…いや、初めてだけど…。なんというか…死んだ魂の集まる場所ってね、井戸端会議みたいに色んな人が集まって、生きていた頃の話を自慢しあうんだ。で、息子さんが『天の王』学園にいるって方がいてね。その夫婦はもう随分前に死んでいるのだけど、訳あって学園に捨てた息子さんと会って話が出来たっていうんだ。アスタロトと言う『天の王』の生徒で、魔王みたいな美しい少年が、魔力を使って、親子の対面をさせてくれたって…それを聞いて、もしかしたら、スバルと会えるかも…って、期待していた。そしたら、ここに呼ばれたんだよ」
「そう…」
「座って話そうか」
「うん」
ふたりは昔と同じ岩場に座った。
スバルはなんだか変な気分だ。伸弥と会えたのは嬉しいけれど、自分の魔法ではなく、アーシュの力で伸弥と会えたことや、それを伸弥が感謝していることに嫉妬してしまう。
だけどあまりにも理不尽すぎて、スバルは黙って、川辺のアーシュを見つめた。
相変わらずアーシュは慣れぬ手つきで釣竿を振り回しては、水面にばしゃばしゃと叩きつけている。
「あの様じゃ、魔王どのは釣りの経験はないらしいね」
「…さあ、どうかしら?」
やみくもに竿を振り続けているアーシュの恰好に、伸弥とスバルはくすくすと笑った。
「…最初にスバルと出会った時も、あんな風だったね。君は手で魚を捕まえようと何度も転んで水浸しになってた」
「…そう、かな」
「キラキラと…水しぶきに跳ねるスバルが、純粋に輝いて見えて…僕はとても欲しくなった。そして無垢な君を綺麗なままでずっと僕の傍に置いておきたかった。…鈴子のように…」
「…」
「…その頃の僕は、外面は良くても、鈴子をあんな形で失って、いつも気が重くて仕方なかったからね。どことなく鈴子に似ているスバルを妹の替わりにしようとしていた。でも、それが間違いだとすぐに気づいた。僕は…純粋でかわいいスバルに素直に惹かれたんだ」
「…伸弥さん」
スバルは伸弥を見つめた。伸弥の言葉や表情、スバルを見つめる瞳はどうしてこんなにも温かく、心に沁み渡っていくのだろう。
「ゴメンね、スバル。何も知らせずに、死んでしまって…」
「伸弥さん…」
「…気がついた時は、手遅れだった。進行性の癌で、外科手術でも取り除けない難しい場所にあってね。長くて半年と言われた…。スバルに最後に送った写真、あれね、留学を途中で断念せざるをえなくて、ニッポンに帰る前に、最後だからって我儘で旅行させてもらったんだ。…きっと最後になるだろう手紙に…スバルに元気な姿を見せたかった。…死んでからも元気な僕の姿がスバルの記憶に残って欲しい…って、思ったから…。弱った惨めな姿を絶対見せたくなかったから…」
「…」
「そのプライドだけが僕を生かしていた。…痛くて、苦しくて、何度死にたくなったかわからない。…泣いても喚いても痛みが消えるわけもない。ただスバルを思った。君を想える自分と、僕を好いてくれる君の想いに僕は支えられていた…」
「伸弥さん。僕だって…僕だって、伸弥さんの写真をいつも眺めてた。どんなにひとりぼっちでも、僕には伸弥さんがいるんだって…いつか伸弥さんと一緒に生きていけるんだって、そう信じて生きてきた。だけど、もう伸弥さんは…伸弥さんと一緒に未来を歩けないのなら、僕も死にたい。…死んで…その死んだ夫婦の魂みたいになって、伸弥さんと一緒にいたい」
「…スバル。僕は死にたくなかった。もっともっと生きていたかったんだよ。…運命は僕の望みどおりにはいかなかったけれど、僕は最後まであきらめなかった。一緒に生きたかったのはスバルだけじゃない」
「…だけど、僕は!」
死んで伸弥の傍に居たいと願うスバルの想いが、伸弥は愛おしいと思った。手の平でスバルの頬を撫で、伸弥は口唇にキスをした。
さっきとは違う少しだけ温かい口唇に、スバルは頬を赤らめた。
「僕は…スバルが思っているよりも…いやそれ以上に君を愛していたんだ。君を守りたくて、君と歩く未来を希望にして、頑張ろうと生きてきた。君からどれだけの勇気をもらっただろう。どんなに辛くくじけそうになっても、君に送る手紙には、元気な自分を精一杯見せたかった。スバルもまた、懸命に頑張っていたのだね、僕のために…僕はそれがとても嬉しかった」
「…」
「僕はずっと夢を見ていた。スバルが学園を卒業する日…その卒業式に、君の恋人として一人前になった僕は君を迎えに…一緒に生きていくパートナーとして保護者席に座り、君の晴れの姿を眺めるんだ。卒業証書を受け取った君は、僕めがけて、飛び込んでくる。キラキラと輝くスバルを、僕の両腕はしっかりと受け止める…それが僕達の誓いの儀式だね、スバル…」
「うん、うん、伸弥さん」
「だから、僕にその姿を見せてくれないか?僕はスバルを抱けないけれど、君の傍にいる。そして、ずっと君を見守っている。嬉しいことも悲しいことも僕が受け止める。君の心の支えになるよ。生きている僕ができなかったことを、死んでしまったからって、あきらめないさ。僕の希望はここにちゃんと生きているんだからね…」
「伸弥さん…」
「だから、…つらくてもスバルは生きて欲しい。そして幸せな日々を探して欲しい。豊かな人間に成長して、良い魔法使いになって欲しい…」
伸弥の言葉はスバルを泣かせた。悲しみと嬉しさと絶望と希望が混ざり合った感情が溢れて止まらなかった。
そして、スバルは伸弥の言葉をその胸にしっかりと刻み込んだ。
シンと冷たい学園の屋上、夜の空には数多の星空…
スバルは立ったままずっと見上げ続けた。
「…じゃあ、スバル。俺、先に部屋へ帰るからな」
「うん」
「…アルトは滅多な事では風邪なんぞひかねえけどさ。適当に戻れよな…みんな心配するからさ」
「わかった。…アーシュ」
「ん?」
「…ありがとう」
フンと鼻を鳴らしアーシュは屋上の階段を降りていく。
その後姿が消えるまで見送り、スバルはまたひとり、天に目を移す。
「スバル、あれがプレアデス星団だよ…」「うん、僕ちゃんと名前も覚えたよ。綺麗な乙女達の名前なんだ」「一人ずつ呼んでみるよ。アルキオネ」「アトラス」「メローペ」「マイア…」「プレイオネ…」
それは未来のふたりの姿だった。
「伸弥さん、僕、頑張るよ。あなたに誇れる自分でいたいから。だから…ずっと僕を見守っていてね」
スバルの目にキラキラと星屑が降り注ぐ。
それは伸弥の涙のように…温かい。
…その日は、暑さも相当堪えて、身体を起こせないくらいだるくて、死にたくなるほど頭痛が酷くて、目を開けていても夜みたいに真っ暗で…僕はもう本当にこのまま死んでしまうのかと覚悟を決めていた。どうしようもない時は、スバルを思うことにしていた。それでも痛みの強さに耐えきれず、僕は気を失った。
…目を開けると灰色の世界だった。もう、見る事もダメになってしまったのだと諦めると、目の前に金を帯びた白色の光の筋が見える。…ゆらゆらと僕の目の前で何度も螺旋を描き、それは窓の外へ逃げた。
僕はすぐに理解した。あれはあの時の蛍なのだと…そう、スバルと追いかけた時期外れの迷い子…僕は杖にすがり、立ち上がった。あの蛍は僕を呼んでいるのだと思った。
きっと…死にかけた僕を、スバルの元へ案内してくれるに違いない。
…そんな気がしてならなかったんだ。
僕は必死で蛍を追いかけた。外はもう暮れていて、暗闇だった。だけど、僕の目はあの光を見逃したりはしなかった。
…河原へ降りたはずみで、僕は杖を落とした。杖は暗闇に紛れ、見つけることができなくなった。仕方なく四つん這いになり、僕は浅瀬に漂う蛍の光を追った。
胸まで浸かった清流は、夏でも震えるほどに冷たかったけれど、僕は蛍を捕まえようと懸命に手を伸ばした。蛍は静かに僕の掌へ留まった…かと思うと、すぐに消え、辺りは真っ黒な闇に包まれた。その瞬時、僕の目の前の川面に、天の星が降り注いだんだ。
星の光の乱反射だ。僕は動かぬ身体を強いてなんとか仰向けになり、夜空を見上げた。
…そこにはスバルが輝いていた。
…僕を包み込む大いなるスバルの光が煌いていた…
ああ…僕の欲しかったものすべてが、僕の見上げる天上にある…
涙が止まらない。ちっぽけな僕にこれだけの希望をくれる想いに…
スバル…きっと僕らは繋がれる。生と死に別れていても、僕は君の傍にいることができる。
想いはこんなに美しいものだから…
そうして僕は、目に映る星をずっと見つめながら、心臓の鼓動がゆっくりと止まる音を聞いた。
なあ、スバル、僕は、君と共に、ずっと生きたかったんだ…
「スバル」終




