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「スバル」
母の実母であるスバルの祖母は「ニッポン」という、アースでも極めて変わった東方文化で知られる島国、しかもかなり辺境の山と山の谷間のひっそりとした人里離れた貧しい土地で暮らしている。
スバルが母親に無理矢理連れられたのは、9歳の初夏だった。
座席の空いた乗合バスに揺られ、終点の駅で降り、それから徒歩でどれくらい歩いただろうか。
重いリュックを背負った背中が、汗でべとべとに濡れ、絶えず流れ出る汗が額から顎にかけて滴り、喉がカラカラに乾いても、スバルは文句のひとつも言わず、先を行く母親に遅れないように懸命に足を動かした。
轍の跡が残ったでこぼこの坂道をひたすら進み、だんだん畑の青いイネがふたりを迎えるように見えてきた頃、竹林を背にした小さな藁ぶき屋根が見えた。
「やっと、着いたわ」と、母はひとつ深呼吸をした後、後ろのスバルをちらりと振り返り、そして少し急ぎ足でその藁ぶき家に向かうのだった。
藁ぶき屋根の家を囲う低い垣根から庭を見渡すと、綺麗に耕された野菜畑が見え、何羽かのにわとりが庭畑のまわりをうろついていた。
母はうろつくにわとりに構わず、中庭を突っ切り、勢いよく玄関の戸を開け中へ消えた。
スバルは首を上下に動かしながら近づいてくるにわとりが少し怖くなって、足早に母の後を追った。
祖母の名を呼ぶ声にも返事はなく、母はぶつぶつと文句を言いつつ土間の奥へ進み、炊事場の方へと向かった。
スバルは暗い土間の隅々を首を大きく動かしながら眺めた。
生まれてこの方、スバルに定住の地は無い。
だが、それまで西方諸国を渡り歩き、また石の住居に慣れていたスバルには、この古めかしくも御伽話のようなオリエンタル様式のなにもかも珍しくてたまらない。
肩に食い込んだリュックのベルトを外し、荷を玄関の板張りに置いたスバルはもう一度外へ出て、井戸を探した。
キョロキョロと見渡すと庭の奥に手押しポンプが見える。
急いで走りより、ハンドルを上下に何度も降ると冷たい水が少しずつ水口から流れ出始めた。
スバルは汗だくになった顔を洗い、口をゆすぎ、思い切り水を飲んだ。
「はあ~」
今までの疲れの半分は、吹き飛んだ気がした。
「スバルっ!何してんのっ!早くこっちへ来なさいっ!」
いつものようにヒステリックな母親の呼ぶ声が、辺りに響く。聞きなれぬ声に驚いたのか、にわとりがバタバタと一斉に羽ばたきを繰り返した。
スバルは急いで玄関へ戻り、母の声のする奥の土間へ走った。
竈の前に母と祖母が向かい合い、立っていた。
なにやら険悪な雰囲気だ。
「この子がスバルよ。あんた、幾つだっけ?」
「え?…9…さい」
「そう、スバルは9歳。学校は行ってないけど字は読めるし、別段身体も弱くないから、かあさんの好きなようにこき使っても構わないわよ」
「…」
初めて見る祖母は母親よりも少し背が低かったが、腰は曲がってもなく、粗末な絣の着物ともんぺ姿で頭には手ぬぐいでほおかぶりをしている。
なにかの資料の写真で似たような恰好を見た記憶のあるスバルは、目の前の祖母の姿に呆気に取られた。
…この人が僕のおばあさんなの?
「じゃあ、私、これで帰るわ。バスに間に合わなくなっちゃうからね。ホント田舎ってやあね。道は悪いし、時間はルーズだし、本数少なくて嫌になるわ」
「あ、あの、おかあさん、僕…」
「…スバル。さっきも言ったけれど、あんたが身売りさせられるのを気の毒に思って、あの人に黙ってここに連れて来たんだからね。ばあちゃんにきつく当たられても文句を言っちゃ駄目だよ。わかった?」
「…はい」
「じゃあ、私は戻るから。あの人の気が変わったらあんたを迎えにくるわ。それまでここで待ってなさい」
「…」
スバルは黙って頷いた。
母は満足したように、炊事場の戸を開け、外に出ると振り返りもせずに、急ぎ足でこの家から去って行った。
水も飲まないで、おかあさん、喉乾かないのかな…。おかあさんの分も井戸水を汲んであげればよかった…
スバルは走り去る母の後姿を見送りながら、少しだけ気の毒に思った。
ふと祖母の姿を追うと、祖母は竈の前に座り、枯れ木をくべていた。
「今夜のおまえの分の飯はないぞ」
しわがれた声の祖母は、スバルを一瞥もせずに吐き出すようにそう言った。
歓迎されないのは初めからわかっていたが、初日から夕食抜きとは、さすがのスバルもがっくりと肩を落とす他はない。
昼飯もおにぎり一個だけで、すでに腹ペコだったのだ。
気落ちしたままスバルは庭へ出た。
あいかわらず好き勝手ににわとりが地面を突いている。
雲ひとつない空には番いの鳶が気持ちよさ気に円を描いている。
とんびになりたかったなあ~。あんなに高く飛べるんだもの。きっと夕食のことで悩んだりしないんだろうなあ…
スバルは悲しくなった。悲しくなると腹がひもじいと鳴った。
「…おかあさん…」
母はスバルが居なくなりすっきりしていることだろう。実際スバルはかさばる荷物にしかならなかったのだから。
優しくされた思い出は少ない。
それでもスバルは母が好きだった。
おかあさんは僕を捨てた。
そう思うと、涙が溢れ出た。
陽が西に傾く頃、スバルの涙も乾き、日が翳る景色を少しだけ楽しむことができた。
とにかくばあちゃんを怒らせないようにがんばろう。
スバルは健気にもそう決心し、祖母のいる炊事場へ戻った。
祖母は土間から上がった囲炉裏端へ座り、鍋から茶碗に煮汁を注いでいた。
「イモ汁だ。おまえも座って食べろ」と、祖母は先程と同じように怒った調子でスバルに言う。
スバルは祖母の言葉の意味に戸惑い、何度も瞼を瞬かせたが、向かい合わせに置かれた茶碗を見て、急いで靴を脱ぎ、その前に正座した。
差し出された箸をもらうと、スバルは茶碗を持ち、ゆっくりと噛みしめながらイモ汁を味わた。
その想像以上の味わいに、スバルは「おいしい…」と、呟き、にじむ涙を拭いて、鼻を啜った。
祖母はそんなスバルを眺め「どうしたもんだろうか…」と、大きく何度もため息を吐くのだった。