02 Something Better Change
「何かが変わった方がいいんだ」
01話と02話の間に、『IONA』の08話が入りますが、読まなくても繋がります。
『お兄ちゃんのお部屋にいます。ご飯作って待ってようかな』
留守電のメッセージを聞きながら、宏一郎は立ち上がった。急用ができたと言い訳をして、そのまま飛び出す。本気ではないだろうが、刃物や火など危なくて触れさせられない。だだをこねたために合鍵は渡したが、まさか、本当に来るとは思わなかった。
エレベーターの前には大家の若者がいて、彼女を部屋まで連れていったと言う。タクシーでも拾って送り返してくれればいいものを……。事情を知らない相手に無理な注文だと分かってはいるが、心の中で毒づいて、部屋まで急いだ。
チャイムを一度鳴らし、ノブに手をかける。鍵はかかっていない。ぐっと引き寄せて開き、大きな声で呼んだ。
「ルミ? いるのか?」
「……お兄ちゃん」
大して広い部屋ではないが、廊下の先、台所の床に陽美は座り込んでいた。
「家なら、まだ大丈夫なんだけど。手さぐりじゃ、どこに何があるのか分からないの」
泣きそうな顔で言われて、息が詰まる。
「危ないだろ。怪我したら大変だ。それに、食材も調味料も何もないぞ」
「そうなの?」
仕事柄、家で寛ぐような生活ではない。潜入捜査で身元を偽り、知らぬ土地に行くことも多かった。本名で過ごし、顔を晒している今の暮らしでさえ、どこか借り物のような気がする。ここにも寝に帰るだけで、長期間留守にすることもあるため、大家の紹介でルームクリーニングを頼んでいるくらいだ。
「冷蔵庫には、水しかないしな。ジュースと言われても困る」
「言わないもん、そんなこと」
唇を尖らせて、やっと表情が戻った。宏一郎もほっとして、肩の力が抜ける。
「せっかくだから、飯でも食いに行くか」
腕を引いて、陽美を立たせた。周りを見たが、皿が割れたり刃物が落ちたりはしていない。
「ごめんなさい」
「怒ってないぞ。気持ちは嬉しい。ありがとう、ルミ」
彼女を軽く抱き寄せて、髪を撫でてやる。
「物の場所覚えたら、作ってくれよ。カップラーメンに湯を入れる程度でいいから」
「ええーっ」
茶化さなければ、また、変な気を起こしそうだ。
確かに陽美は、小さいころ彼に懐いてはいたが……。15年も前に家を出てからは、めったに顔を合わせることもなかった。あの事件の後、異動もあって、もう会うこともないかと思っていたくらいだったが、皮肉にも昇進がきっかけで居所が知れ、何度も会うようになった。嫌われ、避けられても仕方ないくらいだが、お兄ちゃん、お兄ちゃんと言って来られれば、無下にもできない。医者代にしろと、毎月出来るだけの金は送っているが、若い娘らしく身につけるものでも買って欲しいのかと思ったら、そうではなかった。ただ、兄に会いたいだけだと言う。
何故そんなに慕ってくるのか、彼には分からなかった。あのとき、自分自身の気持ちに気づくまでは。互いに、おかしいほどに好き合っていて……、だが、それは許されることではない。自分はどうでも、未来のある陽美には、逃げ隠れるような暮らしはさせられない……。
「何が食いたい?」
「お兄ちゃんと一緒なら、何でも美味しいよ」
「じゃ、ルミが食えないくらい辛いものにしよう」
「やだあ」
陽美に右腕を預け、宏一郎は部屋を出る。一階でエレベーターを降りたら、まだ大家がそこにいた。そう言えばさっきも、中学生くらいの少年と一緒にいたような気がする。
「お出かけですか。行ってらっしゃい」
黙って会釈だけで済まそうとしたが、ルミが足を停める。声に聞き覚えがあったのだろう。
「先程の方、ですか。お部屋まで連れて行ってくださった……」
「妹が世話になったようで」
宏一郎は仕方なくもう一度頭を下げ、愛想代わりに聞いてみる。
「そちらは、弟さんですか」
「えええええっ?」
二人同時に喚きだした。
「何で僕が、島村さんの弟なんだよ」
「うるさいな。こっちだって願い下げだ」
『漫画じゃあるまいし、違うなら違うと一言言えばいいだろう。ふざけた連中だ』
呆れた宏一郎は、言い争っているのはもう無視して、陽美を促し外に出る。ふと、契約書の署名は『シマムラ』ではなかったとも思ったが、あだ名か旧姓なのかもしれないし、大したことではない。
「病院には、ちゃんと通ってるのか?」
「うん。しょっちゅう行ってて、お年寄りみたい。検査ばっかり」
小綺麗な洋食屋に入ったところ、陽美はグラタンを注文した。スプーンで食べられる大きさにしろ、火傷しないくらい冷ましてから持ってこい、と、宏一郎はいつものように店の者に言いつける。どこへ行ってもこの調子だ。過保護とかシスコンとか誤解されるときもあるが、彼自身は当然のことと思っているので、全く気にならない。
「この前は眼科の先生と脳外科の先生、それに院長先生も来て……」
「何でもして貰え。治る可能性があるのなら」
「治るといいな。お兄ちゃんに負担かけないで済む」
「ルミ」
「でも治ったら、お兄ちゃんはもう優しくしてくれないかもしれない」
「……今は、優しいのか?」
「うん」
「俺は、普通だと思ってる。だが、優しいと思ってくれてるなら、良かった」
陽美は少し笑って、スプーンをとった。
「かき回してから食え。熱いからな」
見かけは悪くなるが、冷ますために全体をかき混ぜて食べさせる。見かけも何も、ルミには見えないんだが……、宏一郎が自嘲気味に俯いたとき、陽美が小さな声をあげた。
「あっ…つう…」
「欲張っていっぺんに食うからだ。ほら、水」
コップをしっかりと持たせ、ゆっくり飲ませる。
「もっと持ってこさせるか」
「ううん。お兄ちゃんがキスしてくれたら、治る」
「できるか。こんなところで」
「じゃ、お部屋に帰ってからでいいよ」
「……その頃には、治ってるだろ。それに、ここを出たら家に帰れ」
「いじわる」
陽美は頬を膨らませ、スプーンを動かす。また火傷をするのではないかと、彼は冷や冷やしながら見ていた。
「病院の予約があるの」
「一人で行けるのか? おふくろは?」
「急に用事ができて。お兄ちゃんが付き添ってくれなきゃ、行けない」
「嘘つけ」
検査の結果を聞くだけなので、陽美は一人で出たのだという。職員の誰かが、タクシーくらいは乗せてくれるだろうとは思ったが、金は出しているにしろ、一度くらいは病院に付き合おうと宏一郎も思い直した。職場に電話してみると、今のところ緊急の用はない。理由は言わず、行き先だけを告げて、さっさと電話を切る。
陽美の目が治るならばと、あちこちの病院を回り、評判を聞いてここに通い始めたのである。二人は診察室から、隣の小部屋に案内された。応接という訳ではなく、デスクと椅子がいくつかあって、カウンセリングやインフォームドコンセントに使うところのようだ。眼科の担当医の他に、外科部長という男が同席し、頭部外科が専門だという。陽美は目そのものが悪い訳ではなく、視神経が圧迫されただか傷ついただか……だった、と宏一郎は思いだした。やがてもう一人、気取った感じの眼鏡の男がやってきて、院長だと名乗った。
「早速ですが、結論から申し上げます。先日の検査の結果、我々はある仮説に達しまして」
「何でしょうか」
宏一郎が聞き返す。陽美は彼の腕に縋っていた。その様子からも、先に渡した役職付きの名刺からも、この、兄だという男がキーパーソンだと判断し、医師たちは彼に向って説明する。
「お怪我をされた際の状況を伺って、頭部強打による視神経の圧迫損傷かと考えたのですが」
砕けた頭蓋骨の欠片か、もしかしたら建材の石が余程深くまで食い込んだのか、あるいは脳内に腫瘍か梗塞ができたか、よく分からないが、とにかく脳内に影があるという。
「よく分からない、って。もっと検査すれば分かるんですか?」
「ええ。開頭手術をすれば、一番よく分かると思いますが」
院長はさも簡単なことのように言い、宏一郎はむっとして言い返した。
「何でそんな……。危険なんじゃないんですか?」
「そうですね。でも、今のままでは一生見えませんよ。それなら、開けて確かめればいい。そう思いませんか? 影が何であるかということが特定できれば、内視鏡での手術も考えられますが、今回は確認目的が第一ですので。もちろん、除去できるものならその場で試みます。ただ、命の保証はできませんし、骨片なり腫瘍を取り除いたところで、必ず見えるようになるとも限らない。また、手術の際に脳組織なり延髄や脊髄を傷つけてしまうかも知れません」
「院長、それは少し……」
外科部長が横から口を挟んだが、宏一郎は席を立ち、声を荒げていた。
「本気で言ってるのか? もしも俺が一緒じゃなかったら、あんたは、若い娘一人で来ていても、同じことを言ったのか? 死ぬかも知れないし、一生寝たきりになるかも知れないけど、ちょっと頭を開けてみませんか、って」
「そうですよ。三宅さん、おや、お名前が違いますね。まあ瑣末なことだ。三宅陽美さんは、確かに目はご不自由だが、判断能力がない訳じゃない。はっきり申し上げて、ご本人に決めていただくのが一番いいと考えています。いつまでも子供扱いをして庇うだけでは、却って失礼なくらいだ」
院長はあくまで冷静に続け、陽美をじっと見る。その場の雰囲気から、自分が注目されていることが分かったのだろう、彼女は口を開いた。
「色んな危険はあっても、また見えるようになるかも知れないのですね」
「原因になっているかもしれないものの確認と除去のために、開頭手術はどうでしょうか、とお話しているだけです。その先のことは、請け負いかねます」
「相手にするな、ルミ。そんな危ない目に遭わせるくらいなら、今のままで十分だ」
人前であることも忘れて、宏一郎が愛称で呼び、引き止めたが、陽美は首を振った。
「それでもいい。お兄ちゃんの顔が、もう一度見られるなら」
一瞬、誰も何も言えなくなる。院長が真っ先に自分を取り戻し、外科部長を振り返った。
「それほど悲観的になる必要もありません。当院の医療技術は自負できるものですし。外科部長は、どのくらいの確率と考えていますか? 異物が良性のものだっとして、周囲の組織を傷つけず、患部だけを除去するためには」
「……可能性に可能性を重ねたお話で、何とも申し上げられませんが。もっと詳しく検査をして、状態を見てからですが、30%くらいかと……」
「じゃあ、八割方大丈夫ですね」
何故か五割も確率を上げ、院長は頷く。
「どういうことです?」
「私が執刀するからですよ。私なら、可能性が一割でも、ひっくり返してみせる」
院長が力を込めて言い放ち、さっさと席を立つ。残された外科部長が苦笑いし、恐らくは臆して何も言えなかった眼科の担当医がやっと口を開いた。
「当方からのご提案の一つと受け取ってください。決して、強制するものではありません」
患者サイドが断ってこそ、インフォームドコンセントの本領発揮と言える。それに、最近は医師も訴訟を恐れ、誰も、言質をとられたくない。
「次の診察のときまでに、ご家族でよくお話合いくださいね」
「お兄ちゃん」
陽美が宏一郎に呼び掛ける。
「お願いしてもいい?」
「手術を受けたいのか? 俺は反た、」
「ううん。手術を受けて、もしも目が治らないどころか、意識が戻らないとか、あるいは自分を失って、ただ生きているだけの状態になったなら」
「だから、そんな手術は受けさせられないって……」
「すぐに死なせてくれるように言って。お兄ちゃんが分からなくなるくらいなら、死んだ方がいい」
宏一郎は目を上げ、医師たちを見た。彼らは一斉に首を振る。
「お前がどんな風になったとしても、生きてさえいてくれれば、って、おふくろも俺も、考えると思うよ。それとも俺に、殺人犯にでもなれって言うのか?」
「……ごめんなさい、お兄ちゃん」
陽美は素直に謝り、宏一郎は頭を撫でてやる。だが、ふと、先程の院長の言葉を思い出した。子供扱いは、失礼なのだろうな……。
部屋を出て、廊下を歩きながら、彼は妹に話しかける。
「本当に手術を受けたいのなら、いいぞ」
「お兄ちゃん?」
「だが、必ず治れよ? ルミが植物人間になんかなったら……、俺は……」
宏一郎は足を停め、低い声で囁いた。
「ルミを殺して、俺も死ななきゃならん」
「いや、いやよ、そんなの」
「さっきの医者は、八割方大丈夫だって言ったんだから、後の二割はルミの責任だ」
わざと軽い調子で言って腕を引っ張り、抱いてやる。もちろん、周囲に誰もいないのを確認してからだったが。
「えー?」
「我がままを言ったんだから、それくらい仕方ないだろ。約束を守れないんなら、絶対駄目だ」
「酷いなあ、お兄ちゃん」
ふざけて絡み合っていたら、真横に交差していた廊下から、看護師が姿を見せる。宏一郎が慌てて陽美を離したのは丸見えだったが、笑いを堪えたようだ。そしてどうも、陽美を見知っていたらしい。
「あら、三宅さん。眼科の早川です」
「あ、こんにちは。お兄ちゃん、いつもお世話になってる看護師さん」
「陽美がお世話になります」
一応、彼も真面目に頭を下げる。
「こちらが、ご自慢のお兄さんね。はじめまして」
「何だいったい。俺の悪口でも言いふらしてるのか?」
「違うもん」
陽美がバッグから何か平たいものを取り出す。携帯にしては小さいと思って覗きこむと、音楽や動画を再生するプレイヤーだった。手探りで何かを再生しようとしている。
「病院なんだから、音の出るものは、」
宏一郎は注意しかけたが、看護師が無言で彼の腕を押さえた。陽美は何も気づいていない。
「これでいいんだっけ……」
「ええ、それよ。もう一回、見せてくれるの?」
「いっぱい見て。でも、本人の方がカッコいいでしょ」
「そうね。素敵な方ね」
看護師が相槌を打つ。小さな画面には、報道番組で僅かに紹介された、宏一郎たちの姿が映っていた。部下の者は特殊防護服に身を包み、職掌上必要なことではあるが、誰が誰だか分からない。彼らを率いる宏一郎だけは、スーツ姿で、質問に答えたりしている。
「お母さんにね、録ってもらったの。DVDにもしたし、これにも入れられるっていうから」
「……おふくろ、機械なんかいじれるのか」
声が震えないように、ゆっくりと問いかける。陽美は無邪気に答えた。
「できないっていうから、怒っちゃった。絶対やって、って」
自分では、見られないのに。宏一郎の拳が震え、看護師ももう、目を背けている。
「DVDってたくさん見たら、擦り切れちゃうんでしょ? だから、何枚でも、できるだけコピーしてって。だって、治ってから見るんだもの」
「くっ……」
彼は唇を噛み締めた。苦悶の声は、陽美に気取らせたくない。苦い、血の味がする。
「……行くぞ。お仕事の邪魔だ」
「あ、うん。じゃあまた、来週の予約のときに、よろしくお願いします」
「え、ええ……、お待ちしています。お大事にどうぞ」
看護師という職業柄、患者の最期を看取ることも、多々あるだろう。だが、一途な陽美の姿も、胸苦しいと思う。宏一郎はもう一度深く頭を下げ、待合室へと向かう。
「でもなあ、ルミ」
彼もやっと落ち着きを取り戻し、無理に明るく話しかけた。
「なあに」
「治ったら、現物が目の前にいるんだから、あんな恥かしい録画とか持ち歩くの止めろよ?」
「じゃ、一緒に何か録る」
「げっ」