01 No More Heroes
「もうヒーローなんかいらない」
『道を空けろ!こいつがどうなってもいいのか?』
血走った眼で周囲を睨みながら、男が喚く。左腕で制服を着た女子生徒の首を抱えこみ、血の付いたナイフを押し当てていた。その娘は俯き、自力で立っているのがやっとだ。
宏一郎は冷や汗をかいて、ただ、それを見ていた。何とかしてやらなければ。だが、頭も身体も動かない。ただ、唸るだけだ。情けない……。
「お兄ちゃん?」
はっと目を開ける。彼の妹、陽美が心配そうに声をかけていた。夢、だったのだ。
「ああ、済まない。変な夢を見ていたようだ」
「うなされてた」
「ルミが、一緒に寝るとか言うからだ。変に緊張して……」
「酷ーい」
高邑宏一郎と妹の陽美は、十三も年が離れている。宏一郎の母親が再婚し、陽美が生まれたからだ。新しい父親にはなじめず、進学を機に彼が家を出るまで、陽美が五歳のころまでしか、同居はしていない。それでも陽美はずっと兄を慕い、休暇ごとに会うのを楽しみにしていた。職に就いてからは、いっそうその機会も減り、また事情もあってしばらく顔も合わせなかったのだが、この春の異動で近くに戻り……、昔通りに陽美に付きまとわれるようになった。そして今日はとうとう部屋にまでついてきて、泊めろと居座られたのである。
宏一郎には、実の父親の記憶がない。死別か離別か、あるいは最初からいなかったのかもしれない。母親は、昼間は生命保険の外交を、夜は水商売を掛け持ちしていた。女手一つで育ててくれたのだから、感謝はしても、軽蔑などは感じなかった。恐らく生保の顧客だった陽美の父と結ばれた後、夜の仕事のことを一切口に出さないほどの気遣いも、もう彼には出来ていた。
ただその反動か、彼が役人になろうと考えたのはある種の刷りこまれだろう。残念ながらⅠ種は通らなかったが、就職浪人する余裕はない。エリートコースは約束されなかったけれど、Ⅱ種なら逆に潰しが利いて、選り好みしなければどこでも入れそうだ。そう考えた宏一郎は、単純に給料で、警察官に決めた。キャリアの奴がいきなり役付きだったり、学閥が幅を利かせたりと不愉快なこともあったが、片親による見えない差別は子供のころから慣れている。とにかく、昇格試験を受けて、偉くなることばかり考えていた。
男が学校に乱入して、数人を刃物で傷つけ暴れ回った挙句、人質をとったという。すぐに110番があって、機動捜査の宏一郎達に出動の指示が出た。
「女子高だって?よっぽど、リアルの女に飢えてんのかね。どうせオタクの引きこもりだろ」
「普通に、抵抗が少ないからだろ。体育会系が揃ってる男ばかりの学校に殴りこんでも、逆に、取り押さえられかねん」
宏一郎が言い聞かせたが、同僚は鼻を鳴らす。
「その方がいいんだけどなー。めんどくせーし」
「俺らが暇なのはいいことだが、出動が面倒くさいとか言うな」
「へいへい。相変わらず真面目ですな、警部殿は」
運転しているのも、同い年の男だ。昇格も興味がないのか、試験も受けない。宏一郎は意地になって勉強して警部に昇格し、しばらく府中に研修に行って戻ってきたばかりだった。もちろん、ここで終わるつもりはない。
学校の名前に覚えがあると思いだしたのは、現場に着いて、校門に書いてあるのを見た後だ。妹の陽美が高校に入ったといって、写真を送ってきたのである。とはいえ、巻き込まれているはずはない。後で、電話でもしておこう……、そう、考えていた。
完全に包囲されている、抵抗は止めて投降しなさい、といった呼び掛けに隠れて、宏一郎達は突入に備えていた。犯人は一人、時間の余裕は少ないとはいえ、隙をつけば押さえこめる。そのための訓練は、日頃から受けている。
教師に案内されて、彼らは校舎の裏側から、建物の陰に隠れつつ中庭に忍び込む。教室の窓は大きく開いたままで、ガラスを割る必要もない。訓練かよ、などと軽口も出るくらいだった。
だが。
人質の娘が見えた途端、宏一郎はその場に立ちつくす。他の連中が押さえつけようとしたが、もう遅かった。
「て、手前!警察か?」
犯人が喚き散らし、その女子生徒も顔を上げる。そして彼が、絶対に言うなと念じた言葉を口に出してしまった。
「お兄ちゃん!」
「へええー、こいつは面白えー。適当に捕まえたんだが、いい人質だったって訳だ。さーて、お兄ちゃんよう、同僚の皆さんに、下がっているようにお願いしてくれよ。それから、クルマとカネも用意して欲しいな」
「ふざけるな。どうせ逃げられやしないんだ。人質を解放して投降しろ。……その娘は、俺とは何の関係もない」
「無理無理、騙されないって。顔似てんのかな、おい、よく見せてみろよ」
男は人質の、宏一郎の妹の陽美の髪を引っ張り、顔を覗きこむ。陽美は嫌がって悲鳴を上げ、それが彼の胸に刺さった。
「うるせえなー。黙ってろ」
ナイフを突き付け直したとき、刃先が僅かに陽美の頬を傷つける。暴力と無縁の世界にいた彼女には、信じられない痛みと、血の流れる感覚だったのだろう。いっそう高い叫び声をあげて、暴れ出した。
その後の宏一郎には、切れ切れの記憶しかない。
男が何か罵りつつ、陽美を突き飛ばした。やっと立っていた彼女はその場に倒れ、教卓から転げ落ちて、硬い石の床に頭を打ち付ける。ゴンと、鈍く嫌な音がした。動かなくなった陽美に向かってナイフを振り上げた男の眉間を、彼は正確に撃ち抜く。もちろん、殺すつもりだった……。
陽美の頭の周りに、恐ろしい程の量の血が溢れていた。だが宏一郎には、妹の顔についた傷の方が心配で、そっと頬に触れる。よく切れる刃物が滑っただけで、きっと痕も残らないだろうと判断すると、安心して息をついたのだった。
「どけ!」
課長に怒鳴られ、押しのけられる。何故だろう。あれは、かすり傷なのに。血まみれの陽美を見ても、まだ状況が飲み込めない。自分が銃を撃った動機すら、もう分からなくなっていた。
命は取り留めたが、陽美は光を失った。運悪くも石貼りの部分にぶつかったために、頭蓋骨が砕け、視神経も傷ついたのだという。まだお若いですから、絶対に治らないとは言えませんが……、と、医者は母親に、気の毒そうに告げた。
宏一郎はしばらく謹慎をくらい、その後、署長に呼び出される。
「犯人が抵抗し、人質を傷つけたために、やむを得ず威嚇のために撃ったと発表してある」
それでも世論が騒ぎ、謹慎処分になったのだ。まさか、警察官が殺意を持って撃った、とも言えないだろう。この呼び出しでどこかに飛ばされるのかと彼も考えていたら、公安への異動命令だった。
「捜査に関わることは変わらんが、職務上、色々と気を遣って貰わねばならん」
「はい」
『遠くに異動になった』とだけ告げて、彼は家族から離れた。
幼いころ、『ハルミ』という自分の名前が言えなくて泣いていた陽美を、宏一郎は『ルミ』と呼んだ。陽美はそれが気に入り、機嫌を直して笑った。だからずっと、今でも、彼だけは陽美を、ルミと呼ぶ。
大して顔も似ていない。名前だって、一人だけ母親の旧姓のままだ。だが、陽美が大切な妹であることに変わりはない。そして、助けてやれなかったせいで、妹の一生が台無しになったことも事実だ……。それを宏一郎はずっと悔み、いつまでも責任を感じている。
人に隠れた仕事をしながら、それでもまだ、昇格は諦めなかった。陽美の安全は、署長が保証してくれている。出世して金を稼ぎ、妹にいい暮らしをさせなければならない、彼はそう考えたのだ。他人にどう思われても構わなかった。成果を挙げることと、自分の身を護ること、試験に受かることばかり考えていた。
公安部にも機動捜査部隊があって、そこの隊員だけは、人前に出ることがある。査閲を受けたり、対テロ訓練を披露したり、広報的な役割もあるのかもしれない。数年後、宏一郎はそこを与ることになった。キャリアよりは遅れたが、30そこそこで警視にまで昇格した彼の存在は、それなりの宣伝になるのだろう。
だがそのせいで、兄が近くにいることが、陽美に知れてしまった。なかなか皮肉なものだ。
忙しいと叱っても、陽美は宏一郎によく電話をしてくる。仕方なさそうな素振りでたまに会って、美味いものを腹いっぱい食わせ、何でも買ってやった。財布が空になろうが構わないと思っていた。だが実際、陽美は服も靴もアクセサリーも、あまり欲しがらなかった。
「だって、見えないもの」
そう呟いた直後、何も言えなくなった彼に、泣きながら謝る。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。ごめんなさい」
「いや、俺が……」
「お兄ちゃんに、八つ当たりしちゃった。全部、自分のせいなのに」
『そんなはずはない。お前は何一つ悪くない。俺が、驚きのあまりに手順を忘れ、悪目立ちした挙句に、たった一人の妹を危険に晒したのだ』
「助けに来てくれたお兄ちゃんは、カッコよかったけど」
『違う。俺は何も出来なかった。手遅れになってから、お前を傷つけた男を撃っただけだ』
「その女は何の関係もない、なんて酷いことを言ったわ。ずっと、ルミは可愛い妹だって言ってたのに」
「……悪かった」
やっと、それだけ口に出す。もう何年も前のことだが、陽美には鮮明な記憶なのだろう。あれ以来、何も見えていないのだから。
「寒いだろう、ルミ。もっと厚手のコートを着た方がいいな。買いに行くぞ」
無理に話を変えて涙を拭いてやり、右腕を差し出す。陽美はそれに左手で縋って、右手に白い杖を持った。
宏一郎の借りているマンションの一階は、小洒落たブティックになっている。探し回るのも面倒で、そこに行くことにした。結構いい値段がついていたが、その辺は問題ない。この建物の持ち主でもあるとかいう店長の若者と店の娘たちに、見繕うように言いつけて、彼は外に出る。
兄の欲目ではなく、陽美になら何だって似合うだろうし、お世辞に付き合うのも面倒だった。いつの間にか雪が降り出していて、舗道が濡れている。店のドアからは数段の階段があり、気をつけてやらなければならないと思いながら、待っていた。
コートの襟には毛皮の飾りがついていて、ふんわりと暖かそうだ。宏一郎が端を直してやったら、にっこり笑う。
「今日は、お兄ちゃんのところに泊まろうかな」
「駄目だ。明日は仕事で早い、」
「ちゃんと早起きするよ。タクシーだけ乗せてね」
「部屋は散らかってて、ルミの寝る場所もないぞ。一人じゃトイレにも行けないじゃないか」
陽美は一度も、彼の部屋に来たことはない。いくら勘が良くても、動き回れないだろう。
「お兄ちゃんと一緒に寝るからいい。トイレに行きたくなったら、起こして、連れてってもらうもの」
「何を言ってるんだ。家に帰れ」
「いや」
頑固に言い張り、その場に足を停めてしまった。仕方なく、部屋に連れ帰る羽目になる。
週一のクリーニングも頼んであるし、あまり帰らないので、大して散らかってもいない。とりあえずベッドに寝かしつけたが、一緒に寝るとだだをこね始め、結局、本当になってしまう。赤ん坊のころは、確かに宏一郎が世話もしたし、おむつも風呂も見てやった。彼が家を出るまでは、一緒に寝ていたこともある。だがもう、こいつは若い娘で……、無防備過ぎるだろう。まさか変な気持ちは起こさないが、こっちも色々としんどい……、などという宏一郎の苦悩もお構いなしに、陽美は安心したように目を閉じて眠ってしまった。ますますきつくなったが、そのうちに彼も寝てしまい、嫌な夢を見てしまったという訳だ。
「どんな夢? 人に言ったら、気が楽になるかも」
「いや、ルミには……」
それでもう、どんな内容か、言ったようなものだ。案の定、陽美は宏一郎に掴まっていた腕に、ぎゅっと力を入れた。
「私のこと……? ごめんなさい」
「何故謝る? お前のことだとは言っていない。ものすごくエロい夢で、若い女の前では口に出せない内容かも知れんぞ」
苦しい言い訳も通じず、陽美の目から涙が溢れ出す。宏一郎は指で拭ってやった。
「泣くな」
「……うん」
彼の指を、陽美がそっと掴む。そのまま手をなぞり上げ、腕を、肩を確かめて、やがて頬に触れた。
「ルミ?」
思わず動いた唇を、細い指先が捉え、そしてそこに、自分の唇を押し付ける。何が何だか分からなかったが、まさか応えてやることも出来ず……、邪険に押しのける訳にもいかず……、宏一郎は固まった。陽美自身も、キスなどしたことがなかったのかも知れない。ただ唇を合わせただけで、その先には進まなかった。
彼は何とか落ち着きを取り戻し、指を唇の間に割り込ませて自然に離す。
「どうした、急に。俺だからいいようなものの……」
「お兄ちゃんだから、だもん」
「おいおい、何かの練習台か?」
茶化してみたが、声が上ずる。陽美も首を振った。
「違うわ。ずっと、考えてた。いじけてる訳じゃないの、でも、まだ若くて綺麗なうちに……、大好きなお兄ちゃんにあげようと思ってた。勇気を出してここまで来たのに、お兄ちゃんは子供扱いだし……」
「実際、子供だからな。それにルミは、俺の妹だ」
「私のために、お兄ちゃんが犠牲になる必要なんかない。目が見えなくたってできるお仕事もあるし、もしかしたら、治るかもしれないんだもの」
「ああ、治ればいいな。そのための金は、俺が稼ぐから安心しろ」
「だから、違うの!」
陽美が激した調子で、声を張りあげる。
「お兄ちゃんはいつも、そんな……」
「妹だからな、当然だ。そしてあれは、俺のせいだ。どちらも事実だよ」
「……じゃあ、私をお兄ちゃんのものにして。責任だというのなら、もう一つ負って」
「おい、ルミ……」
再び押し付けられた唇に、宏一郎はつい、応えてしまった。舌を動かし、陽美の唇を割り開いて、口腔内へと入りこむ。寂しげな薄い唇で、口も小さかった。義務や責任など感じなくても、多分この女のことは、ずっと護ってやりたくなるだろう。
「バカだな」
激しいキスに、ぼうっとした様子の陽美が、顔を上げる。彼はどうにも堪らなくなり、腕に力を込めて抱きすくめた。
「二人で、どこかへ逃げよう。誰も俺達のことを知らないところへ」
「うん」
正しいことじゃない。分かってる。だが、子供さえ作らなければ……。くらくらと目が回り、宏一郎は自分に酔っていた。愛しいこの女と暮らせるのなら、金も名誉も、何も要らない。どこか地の果てで、肩を寄せ合って生きて行こう。だからルミを今、自分のものに……。
「ルミ」
適当に着せたTシャツをたくし上げ、脱がしにかかる。陽美はどう反応していいのか分からずに、腕の中で大人しくしていた。そして……。
いきなり電話が鳴り出し、驚いた彼は妹の身体を離した。鳴り続けるのをしばらく見ていたが、やっと自分を取り戻して、通話ボタンを押す。もちろんそれは、急な事件が起きたという呼び出しで、二人からも、憑き物が落ちたようだった。
「起きて、着替えてくれ。ルミをタクシーに乗せたら、俺もそのまま出る」
「明日まで、待ってるのに」
「戻れるかどうか、分からん。我がままを言うな」
「……うん」
着替えさせ、先程買ってやったコートも着せて、外に出る。もう夜は更けていたが、ここはまだ、人通りも車も多い。客待ちのタクシーも列をなしていて、宏一郎は先頭の車に陽美を乗せ、降りるときも必ず手を貸せと、運転手を一言脅してから送り出した。
コートを買ったのは、『イオナ』の主人公「ぼく」のお店で、カボチャのジャック達にも会っています。
サブタイトルは、The Stranglersの曲からです。内容に関係あるような、ないような。