日本食は、1日にして成らず。
最近、日本食を食べてますか?
「つまりですね、ご主人」
カウンターに広げられたタブレットの画面を、若い男の人差し指がせっかちに叩いた。
農水省・食料安全保障調査チームの調査官だというその男——山崎は、まだ三十前後の若さ特有の、清潔で容赦のない目をしていた。
「この『国産 日本の恵み膳』というお品書きは、景品表示法、あるいは広義の優良誤認を誘発する恐れがある、と言わざるを得ないんです」
店主の玄八は、胸の前で腕を組んだまま動かなかった。
創業六十年、赤坂の路地裏で看板を守ってきた高級料亭『極帝』の厨房には、出汁の香りがまだ淡く残っている。
だが、来月には店を閉めることが決まっていた。
体力の限界と、ここ数年の異常なまでの物価高騰が理由だった。
「国産の食材を使って、日本の料理を作る。それがうちの暖簾だ」
玄八は低く言った。
「嘘はついておらん。米は新潟のコシヒカリ、魚は対馬の甘鯛、鶏は比内地鶏だ」
「ええ、米は国産です。令和の米騒動以来、価格は三倍になりましたが、確かに日本の土で育った」
山崎は眼鏡のブリッジを押し上げ、画面のスライドをめくった。
そこには、顕微鏡写真のような緻密さで『極帝』の仕入れルートが解剖されていた。
「ですが、味噌の大豆はアメリカ産。醤油の小麦と大豆はカナダ産。天ぷら油の菜種はオーストラリア産です。それだけじゃない。比内地鶏は秋田で育ちましたが、彼らが食べた飼料のトウモロコシは99%ブラジルからの輸入です。対馬の甘鯛は? 地元の養殖業者が与えていたペレットの魚粉は、ペルー産のアンチョビですよ。漬物の大根は今の季節、中国の契約農家から入っている」
山崎は息を吐き、画面を消した。
「この定食で、純粋に日本だけで作られたものは、米と水くらいです」
玄八の眉がぴくりと動いた。
鼻で笑うように息を抜く。
「だから何だ。これは日本食だ」
「日本食と呼びながら、海外から船が来なければ一週間も維持できない。それを日本の食文化と呼べるんですか」
玄八は山崎を真っ向から睨み据えた。
「うちの先代から通ってくれる客が、味噌汁を飲んで『故郷を思い出す』と言ったあの記憶まで、外国産になるのか」
山崎は目を伏せなかった。
「記憶は変わりませんが、サプライチェーンは変わります。私たちは現実の話をしているんです、ご主人」
その議論が決着を見る前に、世界が動いた。 中東での紛争激化に伴う海上封鎖、そして北米西海岸で発生した大規模かつ長期的な港湾ストライキ。
二つの巨大な結び目が同時に締まった結果、日本への海上輸送網は一夜にして麻痺した。
穀物サイロは底を突き、飼料が入らなくなった国内の養殖場や畜産場は悲鳴を上げた。
油が消え、調味料の製造が止まった。
政府は国民の動揺を抑えるため、皮肉にもひとつのスローガンを打ち出した。
『純国産食による日本食文化保存週間』
残されたわずかな国内資源だけで、伝統的な食を再定義しようという試みだった。
メディアや自治体はこぞって「本当に国産だけで日本料理を作れるか」という特番を組み、象徴的な料理人として、皮肉にも「国産」にこだわり続けて公認の査察を受けていた玄八に白羽の矢が立った。
玄八は引き受けた。
それが、料理人としての自分の葬式にふさわしいと思ったからだ。
しかし、厨房に立って愕然とした。 醤油がない。
大豆も小麦も、国内産の流通量は極少で、一般の料理人が手に入れられる伝統製法の本醸造醤油は、かつての数十倍の値がついていた。
味噌も同様だった。菜種油も胡麻油も手に入らず、天ぷらを揚げることすら叶わない。
玄八は数週間、文字通りの「日本産」を探して奔走した。
そして一か月後。
特別番組の収録を兼ねた『極帝』のカウンターに、あの山崎が座っていた。
運ばれてきたのは、一汁三菜のシンプルな定食だった。
小ぶりな塩結びが二つ。
澄んだ汁物。
小さな焼き魚。
そして、茹でただけの根菜。
「どうぞ」
玄八が静かに差し出す。
山崎は箸を取り、まず汁を口に含んだ。
無言だった。
山崎は眉をひそめ、それから焼き魚に箸を伸ばし、最後に塩結びを食べた。 噛みしめる音が、無音の店内に小さく響く。
山崎は箸を置いた。
「……味が、しません」
「正確には、いつもの味ではない、だろう」
玄八は言った。
「出汁は昆布と、高知の限られた漁師から手に入れた鰹節だ。だが、醤油も味噌もない。塩は能登の塩だが、塩気だけで深みがない。魚は天然の地物だが、脂が乗っていない。野菜は日本の土で育ったものだが、肥料が足りないせいか、硬くて筋っぽい」
玄八は己の乾いた掌を見つめた。
「材料は全部、日本で採れた。水も、塩も、薪もだ」
玄八が尋ねた。
「日本食だったか」
山崎は答えられなかった。
彼が知っている「美味い日本食」の影は、そこにはどこにもなかった。
「国産にはできた」
玄八は静かに笑った。
「だが、いつもの味にはならなかったな」
「ご主人、この定食、もし市販するとしたら、いくらになります?」
玄八は伝票に目を落とした。
「全ての原材料を国内の希少な流通から競り落とし、燃料から何から完全な国内産で賄った。 ……ざっと、八万円というところだな」
山崎は息を呑み、それから皮肉な笑みを浮かべた。
「八万円」
「ああ」
「純国産を求めた結果、日本食は庶民の食べ物ではなくなったわけだ」
数日後、『極帝』の最後営業日。 皮肉なことに、テレビの反響は凄まじかった。
店の前には、奇妙な光景が広がっていた。
『極帝』の暖簾をくぐっていくのは、高級外車から降りてくる外国人観光客や、IT企業の経営者たちだった。
彼らは「真の日本の味」を体験するために、一食八万円の現金を惜しげもなく支払う。
「アメージング」「これがクリーンなブレッド(米)の味か」
洗練された英語や中国語が飛び交う店内を、玄八はただ黙って見つめていた。
一方、路地を挟んだ向かい側にある大衆食堂の前には、千円の生姜焼き定食を求める長い行列ができていた。
並んでいるのは、普通のサラリーマンや学生たちだ。
彼らは、名前も聞いたことのない国から輸入した冷凍豚肉、輸入大豆で作られた味噌汁、農薬規制の緩い国から届いた野菜でさえ、美味しい、安い、量が多いと言いながら列をつくる。
山崎が、店じまいの準備を始めた『極帝』の勝手口に現れた。
彼は向かいの行列と、店から出てくる外国人たちを交互に見つめていた。
「日本食って」
山崎がぽつりと言った。
その声には、査察の時のような鋭さはもうなかった。
「誰のための料理なんでしょうね」
玄八は割烹着の紐を解き、畳んだ。
「外国のものを使っていたから、あれは日本食ではなかったのか」
山崎は答えず、ただ向かいの食堂から漂ってくる、安価な醤油が焦げる香ばしい匂いを嗅いでいた。
玄八は言った。
「昨日まで、誰も疑わずに食っていた。」
二人はそれ以上何も言わなかった。
路地の向こうで、1000円の定食を食べ終えたサラリーマンたちが、 「やっぱり日本のメシは落ち着くなあ」と笑い合いながら出てくるのが見えた。
完
あなたの理想の、日本食のメニューは?




