日常と任務
夜。
街の明かりが滲むビルの屋上。
黒瀬ユウは、静かに夜景を見下ろしていた。
イヤホンから声が入る。
「ターゲット:佐伯隆一。某製薬企業の研究員」
橘ひなの――データの声。
「機密データの外部流出が確認されてるよ」
「……了解」
短く返す。
「あ、それと」
ひなのの声が少しだけ間を置く。
「この任務、元々ホワイトに回ってたやつなんだよね」
(……ホワイト?)
「断ったのか?」
「うん。“やらない”って」
即答だったらしい。
(あいつが断る?)
(ホワイト)
ノクス内での評価は高い。
詳細な戦闘記録はほとんど共有されていない。
だが――
“確実に仕留める”
“任務成功率は異常に高い”
そんな噂だけが、やけに広まっている。
(見たことはないが……)
(外すタイプじゃない)
そんな人間が、任務を断る。
(……理由があるはずだ)
「理由は」
「分かんない」
あっさりした返答。
「特に説明もなかったし、そのままブラックに回ってきた感じ」
(……雑だな)
ノクスにしては、少し引っかかる。
だが。
(まあいい)
仕事は仕事だ。
「ルートは」
「あと2分でターゲット帰宅ルートに入るよ」
「了解」
ユウは屋上から降りる。
夜の街へ。
人混みに紛れる。
(いつも通り)
そのはずなのに。
(……ホワイトが断った、か)
頭のどこかに残る。
「ユウー」
イヤホン越しの声。
「ん?」
「移動中ヒマでしょ?雑談しよー」
「任務中だぞ」
「だから軽くね」
小さく息を吐く。
「……ユウって呼ぶな」
「え?」
「コードネームで呼べ」
一拍。
「……あ、ごめんごめん!」
軽い声で笑う。
「ブラックね、了解」
(……ったく)
「で、何だよ」
「紅葉ちゃんの話」
(やっぱそれか)
「どうした」
「昨日さ、“引っかかる”って言ってたじゃん」
「……ああ」
歩きながら答える。
「普通なんだよ」
「うん」
「普通すぎて、逆に変」
ひなのが少し黙る。
「んー……」
「気にしすぎかもな」
「どうだろ」
少しだけ真面目な声。
「ブラックってさ、そういうの外さないよね」
「買い被りすぎだ」
「でも実際そうじゃん」
少しの沈黙。
「……あいつさ」
自然と口に出る。
「距離の取り方がおかしい」
「距離?」
「ああ。近すぎない。でも遠くもない」
「ちょうどいい位置にずっといる感じだ」
ひなのが息を吸う。
「……それ、結構やばいやつじゃない?」
「かもな」
自分でもそう思う。
「普通の人って、どっかでズレるもんね」
「そういうことだ」
「一応、覚えとく」
「助かる」
「ターゲット、そろそろ来るよ」
声が切り替わる。
完全に仕事モード。
視線の先。
スーツ姿の男。
(あいつか)
どこにでもいそうな人間。
(……これをホワイトが断った)
理由が分からない。
「ルート固定。尾行に入って」
「了解」
一定の距離を保つ。
足音を消し、気配を薄くする。
男はコンビニに寄り、小さな袋を手にする。
そのまま住宅街へ入っていく。
(帰宅ルートか)
しばらく歩く。
やがて、一軒の家の前で立ち止まる。
玄関の明かりがついている。
ドアが開く。
「おかえり!」
子どもの声。
男の表情が、柔らかく崩れる。
「ただいま」
自然な笑顔。
中から女性が顔を出す。
「遅かったね」
「ちょっと残業で」
男は袋を差し出す。
「これ、好きだったろ」
「え、いいの?」
子どもが嬉しそうに笑う。
「やったー!」
玄関先での、何気ないやり取り。
ありふれた光景。
(……普通だな)
あまりにも普通すぎる。
どこにでもある、家族の風景。
「パパ、今日ね!」
「ん?」
楽しそうな声。
笑い声。
ドアが閉まる。
明かりだけが残る。
ユウはその場で立ち止まる。
(……これがスパイか?)
違和感。
今までとは違う種類の。
「ブラック?」
ひなのの声。
「どうしたの?」
「……いや」
短く返す。
(関係ない)
仕事だ。
感情は不要。
それがルール。
しばらく待つ。
数分後。
男が再び外に出る。
「ちょっと出てくる」
家の中に声をかける。
「すぐ戻るよ」
ドアが閉まる。
(……タイミングがいいな)
裏路地へ向かう。
ユウも動く。
影に溶ける。
気配を消す。
(ブラック)
それが今の自分。
男が路地に入る。
その瞬間。
距離を詰める。
背後へ。
(終わりだ)
——その時。
一瞬。
違和感。
(……?)
振り向きかけた気配。
だが。
遅い。
手刀。
崩れる体。
音はない。
そのまま支える。
静かに横たえる。
「……完了」
「確認。ターゲット沈黙」
ひなのの声。
(あっさりだな)
いつも通り。
なのに。
(……さっきのは何だ)
あの家の光景。
頭から離れない。
「データ」
「ん?」
「こいつ、最後何かしてたか?」
少しの沈黙。
「……特に不審な動きはなかったよ」
「そうか」
(気のせいか)
そう思う。
でも――
「ねえ、ブラック」
ひなのの声が少し低くなる。
「今回のデータ、ちょっと変かも」
「何がだ」
「流出先のログが……妙に雑なの」
(雑?)
「隠す気ないっていうか、逆に“見せてる”感じ」
ユウは目を細める。
(……おかしいな)
「調べとけ」
「うん、やってみる」
通信が静かになる。
夜の住宅街。
さっきの家の明かりが、まだついている。
笑い声が、微かに残っている気がした。
(……ホワイトが断った理由)
一瞬だけ、頭をよぎる。
だが。
考えるのをやめる。
(仕事だ)
そう割り切る。
それでも。
胸の奥に、わずかな違和感が残り続けていた。




