その全てが良かった。
ハードボイルド・セブン
エピソード7. 正義
第59話
その日も平凡だった。早めに外で夕食を食べて帰に帰る途中、日光は買い物があるから少し車の中で待っててと赤見に頼んだ。その頼みを軽く断った赤見は、日光が総合スーパーのあちこちを歩き回り、カートに商品を詰め込みながらリストを一つずつ消していく様子を興味深く眺めていた。
「いつもこうやって買い物してたんだね。」
「庶民の体験が楽しいみたいですね。」
「うん。楽しいよ。」
「ならいいですよ。明日の朝はカレーにしようかと思うんですけど、大丈夫ですか?」
「人参を細かく刻んで入れてくれれば大丈夫。」
「それはもう知ってます。ここまで来たついでに、先輩が買いたいものも買いましょう。何かないんですか?」
「君が買い物する姿が見たかっただけだよ。もう見たからいい。」
「何ですか、それ?」
文句を言いながら、今回は赤見の後を付いていった日光が、胸の奥から湧き上がる不快感に、赤見の腕を慌てて掴んだ。
「日光?」
「先輩、今、お願いします。」
赤見は日光の意図を察し、すぐに残った左目で催眠術をかけた。より強く、最大出力でも、片目だけでかける催眠術は効果が弱く、今では一日にも何度も日光にかけられていた催眠が解けたりした。
「もう大丈夫?」
「はい、はい……。う、危なかった。またいきなり……。」
いつの間にか青ざめて冷や汗で濡れた日光を残し、赤見は後ろを向いた。
「計算して来て。駐車場に先に行くから。」
「ちょっと……!一緒に行きましょう、先輩!」
「大丈夫。さっき充電しただろ。」
ためらわずに遠ざかっていく赤見を見て、日光は顔を歪めた。全く。先輩が殺し屋だったら、仕事が完璧でなく、すでに刑務所に捕まって死刑が下されたはずだ。もう何度目かもこんな感じだった。赤見は、日光にかけた催眠が不安定であることを知っていながらも、特に気にする様子ではなかった。それだけ日光への信頼が深まったのかと思うと、胸が締め付けられるほど気持ちよかったが、こうやって、赤見明を殺してしまいたいという思いが突然湧き上がるたびに、日光は耐えられなくなった。
日光は、買おうとメモしていたリストにないアイスピック、スキットル、ガソリン、マッチを買い足し、レジを通過した。
駐車場はCCTVが設置されており、適切な場所ではなかった。日光はメッセージで赤見をスーパーの裏手にある人通りのない路地に誘い込んだ。赤見は何も疑わず、何もない路地で日光を待っていた。日光が運転した車から降りて、赤見に近づいた。
「駐車場の問題って何?」
平穏な口調で尋ねる赤見を、日光が抱きしめた。
「あ……。」
やがて赤見の左の肩甲骨が熱く湿り始めた。赤見は日光が泣いていると思ったので驚いた。しかし、赤見が日光の両腕を掴んで彼を押し返し、顔を向けた時、日光は全く泣いていなかった。日光は顎を上げたまま、冷たく沈んだ瞳だけで赤見を虫のように見下ろしていた。アイスピックから生まれた遅れた衝撃が、赤見の背中から心臓を斜めに貫いて通り抜けた。
「これは……。」
その感覚は、駅を無視して神経というレールの上を絶えず疾走する痛みの列車のようなものだった。大丈夫。いずれにせよ、どの駅で降りても結果は同じだ。目が眩むほど片目の視界が明るくなっていた。臨死体験をしたと熱烈に主張していた新聞のコラムの人々が思い浮かんだ。明るい光の中で天国を見たという人たち。赤見は今になってはっきりと彼らに反論できた。バカども、これはただ瞳孔が開いて絞り役を果たせなくなったからだ。
やはり天国なんてない。そんなものがあってはならない。
「不気味な野郎。もう消えろ。」
日光が地獄に行ってはいけないからだ。
再び痛み、痛み、痛みの列車。赤見は夢の中の列車に乗っていた幼い自分を思い出した。最後にみたその少年の手には、色とりどりの飴が溢れていた。赤見は直感した。色とりどりの飴が自分の中に溢れている。味は全て違うが、全部甘いだろう。チョコレート味とイチゴ味だけではない。手の中に握りしめたものを一気に全部食べ尽くし、最高に幸せになる瞬間。それが今だ。
赤見の片目が、光輝に近いほどに明るい赤色光を放った。日光は崩れ落ちる先輩の上半身を急いで受け止めた。赤見は初めてであり最後に、自ら先に日光を力いっぱい抱きしめた。後輩が抱き返す力が凄すぎて非常に痛かったが、そんなことは無視できるほど満足で幸せだった。居酒屋にも行ったし、写真も撮った。その全てが良かった。赤見はかすかに笑って、そしてその微笑みはすぐに空気中に飛んで行ってしまった。
日光は抱きしめていた赤見からすぐに手を離した。赤見の死体はみすぼらしく床に落ちた。日光は無表情で涙を拭った。冷たい冬の空気にさらされた湿った頬が、不快なほどヒリヒリした。
日光のコートの胸ポケットには、先ほど購入したスキットルの瓶とマッチ箱が入っていた。マッチ箱を歯の間に挟んだままスキットルの蓋を開けた日光は、中にあったガソリンを赤見の死体に全てかけた。再びスキットルをコートの胸ポケットに戻し、もう歯で挟んでいたマッチ箱を手に握った。マッチを一本取り出した。勢いよく擦ったマッチはすぐに火がついた。数歩後ろに下がった日光は、手の中で激しく燃えるマッチを赤見の死体の上に投げつけた。赤見の死体は一瞬に炎に包まれて見えなくなった。
赤見から湧き上がった光が、日光の彫刻のような顔を手探りしながらゆらゆらと揺れた。寒さで凍りついた頬が、温かく溶けていった。日光は少しだけ炎に当たってから、振り返った。炎のパチパチという音は、まるで小さな足音のようだったが、その赤い音は一か所に釘付けになるしかないので、遠くに遠ざかる日光の背中をじっと見送りながら消えていった。




