俺たちは最初から生きる世界が違ったんだ。
ハードボイルド・セブン
エピソード7. 正義
第51話
大夢はまあまあと正義と親しくなった。施設の院長が大人の事情で一度入れ替わった後、正義の警戒心が少し緩んだおかげだったが、その頃も今も大夢はそのことについては何も知らなかった。
中学校に続き、高等学校に進学した大夢は、真面目に学校に通った。学校でしか得られない種類の財産があった。それらを重要度順に並べてみると、こうなる。学歴を証明する卒業証書、人脈、対人関係能力、普遍的な学校生活という経験、以下その他など。
「だから、俺の言いたいのは、君が学校の授業の進度を先取りしたからって、学校にあえて行かない必要はないってことだよ。」
「兄さんはただ僕と一緒に学校に通いたいだけでしょう。」
「バレた。」
「学校は行きません。独学の方がずっと楽だし。兄さんが言ったこと全部、僕には特にメリットに感じてないんです。」
「なぜ?じゃあ、お前はここを出たらどうする計画なんだ?」
大夢はこれまで先延ばしにしていた『その質問』を口にした。正義は一瞬時間が止まったようにはっとしたが、読んでいた小説を閉じて大夢を向き合った。大夢の読書癖は正義に移った。寝る時間を除けて施設よりも外で過ごす時間が長くなった大夢には、本よりも興味深いものがたくさんできてしまった。そうしていつの間にか大きく成長した大夢は、それでもまだ少年だった。日光はそうではなかった。日光は自分を少年だと定義しなかった。安定して低くなった大夢の声とは対照的に、まだ声帯は十分に発達しておらず、着実に成長痛を経験していたが、日光は自分が今過ごしているこの時間を、ずっと前に全部失ってしまったという感覚を拭い去ることができなかった。
一人でいる場所を探して時間を潰している正義を、大夢はいつも見つけた。今日は生活館の裏手の階段の踊り場だった。日光は一、二段上の段に座って大夢を見下ろしていた。紺色の制服ジャケットの胸元に付いた緑色の名札には『紫』という文字が書かれていた。『日光』と同じように意味のない文字だ。その名前で定義される他の人々は、自分たちが存在することを望んでいないだろう。
「計画はありますよ。」
「そうだろう。だから聞いたんだ。お前は衝動的じゃないし、自暴自棄なタイプでもない。俺が知るお前なら、誰の支援もなく始めたとても、社会の一番高いことろで生きる機会を逃すはずがない。お前は出来るんだろう。さらに俺みたいに必死的にならなくても可能だろ。」
「必死的ですか?」
「……正義。お前はここで何をしているんだ?」
正義はくすりと笑った。大夢としては、本当に久しぶりに見る笑みだった。尖った糸切り歯が、まるで初めて見るように感じられた。
「見ても分からないんですか?何もしてないです。」
「なぜ?それだけ多くの才能を持っているのに。俺がお前なら……。」
「兄さんとは関係ないでしょう。僕はただ適当に時間を潰しているだけですよ。」
日光は再び本を開いた。アイザック・アシモフのファウンデーションシリーズのちょうど第2巻に入るところだった。日光はSF小説が好きだった。じゃないとファンタジー小説や過去を舞台にした歴史小説も良い。とにかく、ここと同じ背景でなければ、何でも構わなかった。ただ、いつでもこの瞬間から離れられるのを望んでいた。大夢は正義から背を向けて踊り場に寄りかかって座り、ぶっきらぼうに返事をした。
「俺は適当なのは嫌だ。」
「知ってます。それが兄さんだから。」
何度も聞いたことがある言葉だった。大夢はコンクリート床のひび割れを熱心に渡る蟻の群れを睨みつけた。大夢は正義が無関心な態度を示すたびに、頭がくらくらするほど怒りが湧き上がった。正義は世の中のあらゆることを全て知っているかのように話すのに、実際に社会に出る準備をしようとはしなかった。大夢はそれが気に入らなかった。正義はそれだけの能力があるのに、なぜ自分みたいに最高を、最善を目標にしないのか?
「何もしないと言いながら、あらゆる分野で独学をしている理由は何だ?」
「別に。自分だけバカみたいに知らないままなのは嫌ですから。」
「それはおかしい。それが何の目標なの?」
「目標じゃないから。僕はそんなものないですよ。」
「お前は、ちゃんと生てみたいと思わないのか?」
正義はしばし本から顔を上げた。彼の顔には、変なことでも聞いたかのような微妙な笑みが浮かんでいた。その後も大夢は適切な答えを聞くことはできなかった。ただ、正義にも何か考えがあるのだろうと、早合点するだけだった。
大夢は奨学金を受けて他の地域の大学に進学した。その間、休むことなくアルバイトを続け、貯めたお金で賃貸借の契約も成功させた。当然だった。大夢はそれだけ自分のランディングに念を入れた。今後、社会での安定した生活は確実だった。まさに順風満帆。大夢は手に入るものなら何でも掴み取りながら駆け抜けてきた。今やその褒美を受けるだけだった。
施設を去る最後の日、いつの間にか自分の身長を軽々と超えた正義を見上げながら、大夢は正義が本気で自分と付き合った瞬間が一度もなかったという現実を初めて直面した。自分は最後まで正義の本心を引き出せなかった。あの長い間、あんなに近くにいても、少しも触れられなかった。自分より若く、小さかった存在だ。当然手に入れて握りしめるべきだった。なぜなら、紫大夢はそれだけに努力したから。親もなく、底辺から一人で這い上がった大夢は、全てを自分の手で成し遂げた。だから、日光正義もまた、彼の意のままになるべきだった。
「さよなら、兄さん。今までよくしてくれてありがとうございました。」
形式的な別れの言葉が致命の一撃となり、大夢の胸に重くのしかかった。もう二度と会えないかもしれないから、LINEでも交換しようとして携帯電話を差し出した手を、正義は知らないふりをした。信じられない裏切りの感情が顔を歪ませた。正義はそれにも知らないふりをした。『どうしてそうするの?』と『元々こんな奴だったんだ』が交互に大夢の思考の進行を遮った。
失敗した。大夢が計画していたことの中で、唯一失敗した項目だった。
「お前は社会に出る準備がまったくできていない。」
深く沈んだ声で絞り出した言葉に、正義は首を傾げた。
「俺がお前を助けること出来るんだよ、正義。」
「あ、またそんな話か。」
ようやく理解したように、正義は何度か頷き、大夢に向かって明るく笑った。初めて見る美しい笑顔が大夢の視線を奪った。
「ごめん、兄さん。俺は兄さんの社会には出ないよ。俺たちは最初から生きる世界が違ったんだ。」




