ごゆっくりどうぞ。
ハードボイルド・セブン
エピソード7. 正義
第50話
日光は『いらっしゃいませ』と書かれたマットの上に立ち止まり、春風の内部を見回した。陰気な先輩が一日中引きこもるような場所だと、思わずここを見下していたようだ。いや、もしかしたら、どうせ自分に禁じられた領域だという考えで、イソップ物語のキツネとブドウの話のように、わざと期待しないようにしていたのかもしれない。とにかく、喫茶店は日光が勝手に想像していたよりずっと広くて、雰囲気も非常に良かった。やや黄色がかった柔らかい照明と、古い木材の内装材から出る木の香りが、日光の気分を楽にしてくれた。一見古めかしくも、古風な趣のある空間だった。その後入ってきた赤見が、一目見ても『意外と大丈夫じゃないか』と書かれているような日光の表情を確認し、ほほ笑んだ。日光は照れくさそうに笑った。
赤見は自然と普段座る隅の席へ向かった。朝早くから先に来た客がいたとはいえ、たった2組で、まだ良い席がたくさん残っていたので、日光も赤見が選んだ隅のテーブルが赤見専用のテーブルだとすぐに気づいた。ビロード生地のソファは、日光の体をふんわりと支えてくれた。今では手の届くところにあるブドウになってからか、日光は春風の全てが気に入っていた。
12月もすでに半分が過ぎたため、気温が低い外とは異になってヒーターを稼働している室内の温度は温かかった。日光がワイン色のコートを隣の席に脱ぎ、前を見ようとすると、赤見もコートを脱ぎ、Tシャツの上にカーディガンを羽織った軽装で日光と向かい合った。日光の静かな視線が微妙に長くなったため、赤見の首が横に傾いた。
「何?」
「何ですか?」
「いや、何かずっと見ているから、何か言いたいことがあるのかなと思って。」
「え?いいえ。」
「ああ、そう?そうか。」
「はい。」
約半年前にこの近くの横断歩道で偶然ぶつかった先輩と、今の先輩が同じ服装をしていますよ。そんな言葉を聞いた相手が感傷的な性格の恋人なら感動するかもしれないが、赤見先輩なら鳥肌が立つから、今日はもう一人で家に帰れと嫌がるかもしれなかった。日光は賢明な判断をして、何の気配も浮かべずに 堂々と話題を変えた。
「それより、何を食べますか……? わあ、今、本当に無意味な質問でしたね。カフェオレを注文するんでしょう?」
「私は、まあ、そうだよ。君は?ここに連れてきたから、何かおすすめしたいけど、君は何でもよく食べるから、むしろ難しいね。」
「これからよく来るなら、すべてのメニューをクリアしてみようと思ってます。じゃあ、ひとまず、最初は俺も先輩と同じメニューにしてみましょうか。デザートは別で追加しなくてもいいですか?」
「うん。まだ朝食が消化できてないから無理。」
「ああ、そういえば、先輩、最近食べる量がちょっと増えたね?もう運動だけすればいいですよ。」
「しない。」
「俺の言ってるのは、今すぐボディビルダーやスポーツ選手になれってことじゃないんです。一緒にジョギングでもしようって話ですよ。どうですか?」
「嫌だ。」
「わかりました。先輩が体力低下で早死にする前に、俺が先に自殺します。」
「そう。じゃあ注文する?」
「あ、先輩!」
これは今、俺のためのことじゃないでしょ!結局、我慢できずに叫ぶ日光の頭をやたりに撫でながら、赤見はくすくす笑った。本当に可愛いからやる行為だけど、こう撫でると、日光がすぐに落ち着くので便利だった。赤見は落ち着いた日光をもう少し楽しんだ後、呼び出しベルを押した。平日の午前中のシフトを担当するアルバイトの本田が厨房の扉を開けてホールに出てきた。
「社長、お帰りなさい。社長が一行の方を連れてこられたのは初めてですね。お友達ですか?」
「ああ、こちらは私の元職場の後輩、日光。それより本田さん、風邪でも引いたのか?その、病気なら今日は帰って休んでもいいのに。」
本田はかけていた眼鏡と白いマスクの向こうに優しい微笑みを浮かべた。首を振る動きに合わせて、黒いくせ毛が彼の頬の上でそよぎながら揺れた。
「風邪ではなく、先ほど倉庫の掃除をしたら、ほこりのせいか少し咳が出たので、しばらくかけてます。それでも、心配してくださってありがとうございます、社長。社長はホットカフェオレですよね?日光さんはどれになさいますか?」
「こいつも同じメニューで。あの、ところで、倉庫にそんなにほこりが溜まっていたのか?次からは私も呼んで。一緒に片付けるから。」
「えーと、それは少し考えるべきですね。社長が手伝ってくれると言うたびに、私たちの仕事が増えるのは知ってますよね?」
「そ、それは……。」
「代わりに時給を上げていただければと、てもありがたいです。」
「あ!そうでなくても皆ともよくしてくれてるから、今月までは試用期間だったことにして、少し上げようかと思っていただけど。どれくらいならいい?」
「冗談ですよ。とにかく社長は本当に純真すぎて困りますよ。あ、次のシフトの中野さんには、給与の引き上げの話は絶対に絶対に出さないでください。全財産がなくなりますよ?」
「いや、本当にもう少しは上げられるんだけど……。」
「今でも十分です。それに、私は社長とこの店が好きなんです。ここで働き続けられるなら、これ以上望むものはありません。」
「本田さんが続けていてくれるなら、私こそありがたいよ。」
「本当ですか?嬉しいですね。」
「本田さんは何か石原さんと似た雰囲気で、だから、本田さんがここにいてくれると、いつもの春風みたいで安心だよ。」
「石原さんって誰ですか?」
「あ、ごめん。また勝手に言っちゃった。」
「いいえ、大丈夫です。社長さんはそういう不器用なところが逆に……。」
「おい。」
赤見と本田が同時に日光を振り向いた。日光は見ていた携帯電話の面から目を離さず、硬い声で言葉を続けた。
「ホットカフェオレを2杯って言ったじゃん。。」
「あ!すみません!今すぐ作ります!」
慌てて厨房へ入っていく本田を捕まえられなかった赤見は眉をひそめた。
「日光。失礼なことするな。」
赤見の戒めにも、日光の視線は相変わらず携帯電話に向けられたままだった。無表情な顔が冷たかった。赤見は片方の眉を軽く上げた。これは冷戦モードだ。最初は少し戸惑ったが、今では何度か見てわかるようになった、日光が本当に怒っている時の姿だった。
「失礼なのはあいつですよ。あいつ、バイトのくせに、社長である先輩をバカにしてました。分からないんですか?」
「分からないけど。なぜそう思うの?本田さんは礼儀正しい人なんだ。」
「礼儀正しい人はそんな風に言わないです。」
「そんな風とは何だよ?」
日光がもどかしげに手のひらでテーブルを叩くと、冷戦モードはすぐに崩れてしまった。
「社会経験のあまり無い先輩にはわからないだろうけど、あれは明らかに先輩を見下しているよ。にやにや笑いながら、社長、社長としたから礼儀正しいのではないんです。」
「あ、そう?でもそれは殺し屋の社会の話なのか?こう見えても、私は普通に高校までは卒業したんだ。」
「こう来ますか?」
「君が先に始めたじゃないか。」
「だから、これはあの奴が先に……!先輩、あの奴がそんなに気に入ってるんですか?ここが春風だからですか?だから特別扱いしてますね?俺に対しては最初から厳しくしたのに……。」
「日光、何か誤解しているみたいだけど、私が君より特別扱いしている相手はいないよ。」
「先輩……。」
突然だけど感動的な発言に、日光の怒りが溶けていくのも一瞬だった。
「君より私に生意気な態度を取る奴はいないから。」
「あ、腹立つっ!」
「事実だろ。」
「もういいです。もう先輩とは話さないよ。話しかけないでください。」
言葉はそうでも、日光の気分はすでに和らぎ、隅の席の沈黙は重くなく自然だった。しばらくして、トレイを持った本田がテーブルに近づいてきた。カフェオレを2杯先に置いて、彼は密封された砂糖シロップ2つをすべて赤見の前に押しやった。
「日光さんは甘いものが嫌いでしょ? なんかそう見えてますね。」
日光はすぐに眉をひそめた。こいつ、一体何者だ?本田の微笑みは白いマスクに半分隠れているだけでなく、何かもっと隠しているように見えた。普通の人なら見ただけで怯えるような険しい顔つきの日光があからさまに不快な様子を露わにしているのに、この本田という男は後ずさりするどころか、日光との距離を積極的に縮めてくるのがやはり不気味だった。甘く見える先輩にだけ這い上がるのでなければ、天性がこういうものなのか?
この男のようなタイプは珍しくないが、全く出会ったことがないわけでもない。日光は対応法を知っていた。この男には噛み付くような話題を与えてはならない。日光は口を閉ざし、顔を背けた。
「ありがとう、本田さん。また必要になったら呼ぶよ。」
「はい、お二人、ごゆっくりどうぞ。」
俺の気分が悪いからあの男をクビにしろと言ったら、先輩は逆に今のようにずっと庇おうとするだろう。人を付けて後を調べさせたり、じゃないと全く存在しない理由をでっち上げてでも追い出さなければならない。日光は最初からアルバイトの採用に積極的に関わればよかったと軽く後悔しながら、カフェオレをひと口飲んだ。日光の眉が再びひそめた。微妙に浮き上がる吐き気のような味が、牛乳とコーヒーの味の間に乾ききっていない洗濯物のように残っていた。それでも口にしたものを吐き出すわけにはいかない。日光は液体を飲み込んだ。
「先輩。これ、元々こんな味ですか?牛乳が腐ったか?」
「私は大丈夫だけど?君の舌が問題じゃない?」
「先輩こそシロップを二杯も入れて気づかないんじゃないですか?」
赤見が肩をすくめる姿は、嘘をついているようには見えなかった。
「嫌なら別のものを注文してあげようか?」
「いいえ、大丈夫です。」
すでにアルバイトの件で半分台無しになった一日だ。余計な過敏症でこれ以上雰囲気を悪くしたくなかった日光は、もう一度カフェオレを飲んでみた。しかし、変な味は消えずに残っていた。日光は突然、アルバイトの落ち着いた微笑みが気になった。……まさか、俺の飲み物に何か入れたのか?
「先輩、これ……。」
日光が言葉を終える前に、赤見の上半身がテーブルの上に倒れた。驚いて飛び上がろうとした日光は、頭がくらくらするの感じ、席にに座り込んだ。吐き気を催すためにすぐに喉に押し込もうとした指を、誰かが掴んだ。日光はゆっくりと瞬きしながら、自分を掴んでいる手を追って視線を移した。
「どうして……。」
白いマスクを顎に掛けたアルバイトの顔は、とてつもなく見覚えがあった。なぜ声だけで気づかなかったのか、日光は自分を責める程だった。
「怖いね、正義。飲むだけで気づ口とは知らなかった。怪物じゃないの?」
日光はまともな抵抗もできず、大夢に腕に倒れた。客を装って座っていたカップルが日光を運び、店の前に停まったトラックに移した。エプロンを脱いだ大夢が助手席に乗り込むと、トラックが発進した。
「Closed」と書かれた札と、中で眠っている赤見を春風に残したまま。




