すでに取り返しのつかないほど全てが壊れてしまったのに?
ハードボイルド・セブン
エピソード6.福世
第47話
「おい、エアコンのおじさん1。涙を全部絞り出したのか。」
はじめのゆっくりとしたハスキーな中低音が、ちょうどベンチから立ち上がろうとしていた二人の男を捕らえた。後ろから誰かが近づいてくるのを知っていた日光は、平然と後ろを振り返ったが、全く気づいていなかった赤見は驚いて慌て、ベンチにすねをぶつけた。すねを掴んで腰を曲げ、うめき声を上げるその情けない姿を見て、舌打ちしていたはじめは、赤見が顔を上げると驚いて息を呑んだ。赤見ははじめの驚いた表情に怪しむにしていたが、すぐに自分の顔が露出されたことに気づき、急いでマスクを上げた。
「エアコンにまた問題が起きたのですか、お客様?」
日光は営業用の微笑みを浮かべながら赤見を隠して、はじめに近づこうとしたが、彼よりはじめの方が早かった。はじめは明らかに悪意を感じさせる嘲笑を漏らし、日光を無視して後ろの赤見に近づいた。そして緊張している赤見からマスクを奪い取り、赤見の腕を掴んだ。
「二人で話したいことがあるから、ちょっと来て。」
「お客様、それは困ります。エアコンのことなら私も一緒に……。」
「エアコンのおじさん2には用はない。それに、さっきからずっと不気味な目で見たよね。私はお前みたいなブサイクとは恋愛はおろか、同じ空間にいるのも嫌だから、ふざけるな。」
俺が……ブサイク……?ブサイク……。ブサイク……?ブサイク……。 日光が人生で初めて聞く言葉に意識が奪われている間に、はじめは赤見を勝手に引きずって行った。
赤見は、この子は私をどこへ連れて行くのだろうと考える前に、はじめはただ日光に会話の声が聞こえないくらいの距離で足を止めた。
遠ざかって小さく見える日光は、まだぼんやりとした表情で立ち尽くしていた。まあ、日光としては、こんなに無闇に自分の容姿を罵られる言葉を聞いたのが初めてだったはずだ。日光と生活して、赤見は自分が思っていたより美人に弱いことを遅れてから自覚したのだが、このはじめという女性は、赤見自身よりも目が高いようだった。こんなことも遺伝なのか?しかし、いくら人の好みはそれぞれ違うとはいえ、日光はあらゆる面から見ても完璧に美しい……。
「おじさん。何を考えてるのか全然分からないね。」
「あ、その、別に、何も考えてなかったんですけ、ど……。」
「もう一度言う。私は読心術者で、他の人の考えを読めるんだけど、おじさんの頭の中だけは全く見えないってことだよ。」
「はい……?」
赤見は自分より少し小さなはじめをぼんやりと見下ろした。先ほどエアコンの点検を装っていた時は、母親に全神経を注ぎ込んでいたため、一緒にリビングにいた異父兄弟姉妹という奴たちはほとんど見向けなかった。赤見はマンションの階段を下りながら、日光が言った、赤見の弟と妹たちに対する感想がどのような意味だったのか、今になってその真意を明確に分かった。
「俺、実は、弟君が先輩と全く同じ顔で同じ名前だから、すごく気になると思ったんですよ。でもそうじゃなかったですね。実際に会ってみたら、弟君は先輩と全然違う感じだし、むしろ妹ちゃんの方が先輩にもっと似てるんですよ。変ですよね?言ってみれば性格も、弟君の方がもっと先輩系みたいのに。何というか、弟君には何も感じないんです。一方、妹ちゃんは何か、えーと、分からないけど、変な気持ちです。とにかく先輩みたいな妙な感じがするんです。」
つまり、日光は超能力に惹かれたんだ。すでに赤見の催眠術にかかっていたから、このはじめという女性からそれを感知したんだ。赤見の外見や性格などはどうでもいい。日光は元々、赤見明という男には何の興味もない。日光が今、赤見のそばにいる理由は、ただ赤見の催眠術のためであり、赤見と似た外見や性格の男よりも、赤見と似た超能力を持つこの女性の方がもっと気になったしまったのだ。
「おい、おじさん。驚いたのはわかるけど、集中してくれないのか。」
「あ、すみません……。」
「おじさんは何者だ?あのブサイクの考えは読めるから、大体どうなっていたのかはわかってる。だから、おじさんは私のお母さんが記憶を失う前に産んだ子供なんだろ?ということで、ここまで来たんだ。でも、なぜこんな方法で近づいてきたんだ?なぜ息子だと言わなかった?お母さんを気遣うためだった?私はどうせあのブサイクの考えを読めるから、嘘は無駄だよ。ただ今すぐに素直に話して欲しいけど。」
まっすぐ向かい合う瞳は、点滅する赤信号のように赤く燃え上がり、黒く沈むを繰り返した。赤見ははじめが自分から何も読み取れないにもかかわらず、次々として読心術を自分に試していることを知った。赤見も逆に彼女に試してみた。赤見の瞳が赤く燃え上がり、黒く沈んだ。はじめは片方の眉を上げた。
「どうやら、おじさんも私には効かないんだ。精神操作、まあ、その似たような能力か?あのブサイクの状態を見ると、やはりそう。待て、まさか……。」
はじめは頭脳が明晰な上、感も良かった。
「お母さんがお父さんと出会う前の記憶を失ったのはおじさんのせいなのか?おじさんがお母さんの記憶に手を付けたのか?でもお母さんは交通事故のせいだと言ったのに。お母さんは本気でそう信じていたの。なぜならお父さんがそう……。」
もう赤見を見ることもなく一人でショックを受けて、つぶやいているはじめが真実に
到達できないように、赤見は始めの肩を両手で強く掴んだ。驚いて自分を見上げる異父妹に、赤見は自分ができる限り最大の厳しい表情を浮かべた。
「申し訳ありません、福世さん。福世さんの推測通り、母親が記憶を失ったのは全て私のせいです。私は催眠術師です。母親に、嫌だから消えろ、と言って、母親が家を出て流離い、交通事故に遭ったのです。福世さんの父親は警察官として母親を救いました。私はそれを全て知りながらも、今までに母親を訪ねて謝罪することができなかったんです。」
赤見は慎重に手の力を緩め、はじめを離した。そして少し後ずさり、はじめにお辞儀をした。
「私が身に余る能力を持っているくせに、悪辣で卑怯なせいです。母親のことは全部私の責任です。」
場所はマンションのすぐ前の通りで、通りかかる人々の視線を感じたが、赤見は腰を伸ばさなかった。やがてはじめが赤見の腕を掴み、赤見をまっすぐに立たせた。はじめの顔にはもう複雑な苦痛が感じられた。どう受け止めていいか混乱しているのだろう。自分がはじめの立場でもそう感じるはずだ。
しかしはじめはすぐに深呼吸をし、肩を堂々と広げた。はじめのような読心術はないけど、赤見は彼女の目から温かい好意を感じた。
「おじさん、本名は何?」
「赤見、明です。」
「うわ、明と同じ名前だ。お母さんの無意識に残っていた名前だったのかな。」
「……。」
「じゃあ、年齢は?」
「37歳です。」
「本当の職業は?」
「……情報屋みたいなことをします。」
この会話は、状況の深刻さとは裏腹に、少し笑えるもので、赤見に日光との初めての会話を思い出させた。立場は逆だったが。
「37歳なら、お母さんが交通事故に遭った1992年にはまだちびっ子だったんだ。」
「ちびっ子、ってまではなかったけど……。」
「嫌だから消えろとか、どこか行けってお母さんに言ったこと、私も何回もあるよ。」
「……。」
「悪いことだけど、私には他人の精神を操作する催眠術がなかったから、何も起こらなかったんだ。もちろん本当に何も起こらなかったわけじゃなくて。お母さんは傷ついただろうけど。だから、幼い頃のおじさんにも、お母さんの心を傷つけた、その分だけの責任があると思う。お母さんの交通事故とその後のことは、おじさんのせいじゃない。その事件の被害者はお母さんだから、お母さんが決めることだけど、とりあえず私の考えを整理してみると、そうなるね。」
赤見は静かにはじめの言葉を反芻した。母親のことが自分のせいではないという言葉は、まるで赤見の足に絡まった鎖を解く鍵のように感じられた。しかし、そんな軽い気持ちを感じてもいいのか?すでに取り返しのつかないほど全てが壊れてしまったのに?




