ところで、そうしたら、俺は?
ハードボイルド・セブン
エピソード6.福世
第45話
日光は、遠くから赤見の母親が住むマンションの外観だけを少し眺めながら、道ばたをうろうろして、そのまま宿に戻ろうと弱気な声を出す赤見に、荷物を見せた。
「先輩がそうすると思ったから、俺が全部準備してきたので、俺だけついてきてください。」
日光が持ってきた荷物には、なんだか分からない道具と、ユニフォームのようなものがぎっしりと詰まっていた。
「この辺りの駅のトイレでこの服に着替えて、元の服は荷物に入れておけばいいですよ。」
「この道具は何だ?」
「エアコン修理用の工具と部品です。服もエアコン会社の制服だから、その服を着てエアコンの無料点検をするという感じで近づきます。先輩の母親の家でどの会社のエアコンを使っているかまで調べておきました。先輩は顔を隠さなきゃいけないから、そこのマスクもつけてください。」
「はあ。本当に行くの?」
日光は赤見と顔を近づけた。驚いた目をまっすぐ見つめる日光の瞳には、何となく決然としたものさえ浮かんでいた。
「今見ないと、後悔しない自信ありますか?それとも今は戻って、後でまた来ましょうか?」
「……分からない。」
「先輩の正体をバレずに、話だけでも交わそうっていうことです。こんなサービスは頼んだことないとか、そんな話でしょうけど、たとえそうあっても。運が良ければ家の中に入れるかもしれませんよ。」
「中に入ったら、その時は?」
「その時は俺がエアコンの点検をするふりをするから、先輩は先輩の母親と何分でも長く一緒にいてください。ね?」
赤見は迷った末、ついに頷いた。
数分後、駅で着替えた二人は悦子が住むマンションに入った。3階、305号室。
マスクをして玄関のすぐ前まで来ても落ち着かず、もう帰ったらダメなのかと言葉を呟く赤見を、日光がようやくなだめた。ここで諦めるわけにはいかない。赤見は日光がどんな決意をしたのか知らなかった。俺は先輩を、先輩の全てを独占する権利を捨てて、先輩が幸せになることを願ってここまで来たんですよ。
ふと背中に描かれた二匹の蝶が浮かんだ。宇代が井上病院の手術室で生死の境をさまよっていた時、日光は先輩のそばにいれば、傷ついた蝶でも構わないから、ただ自分が痛む機会をくれと祈っていた。しかし、先輩とこの2ヶ月間を正式に一緒に過ごした今、日光の蝶は傷つきながらも幸せだった。幸せではないのは反対側の蝶。先輩の蝶だ。
幸せとは、もしかしたら傷の有無から生まれるものではないかもしれないという思いが初めて浮かんだ。誰かのそばにいるだけで大丈夫になる。なら、やはり先輩は、日光のそばにいるだけでは大丈夫ではなかった。先輩が幸せになるためには、先輩の家族のそばにいなければならなかった。
ところで、そうしたら、俺は?
日光は、無駄に扉に付いた覗き穴を覗き込むふりをしながら、先輩から顔を背けた。先輩を見るのが辛かった。先輩を先輩の家族に手渡すのが辛かった。
……この扉の向こうにいる先輩の家族全員を殺せば。
ベルを押さなくても、突然扉が半分開いた。日光は一歩後ずさった。
「どこから来たんですか?」
福世はじめ。写真で見た通り、まぶたが重い、下向きに垂れた目つきと赤く染めたセミロングヘアがやや退廃的な雰囲気を漂わせる女性だった。二人の母親が同じ人であるにもかかわらず、彼女の外見からは赤見に似ている部分は一切見当たらなかったが、彼女の黒い瞳だけは、日光にして妙に赤見を思い出させた。
日光は隣で固く凍り付いている赤見の代わりに、にっこり笑って,工具の頭の部分が見える荷物を持ち上げた。
「こんにちは、エアコンの訪問修理技師の西村真です。こちらは私の先輩、赤田千秋さんです。」
「呼んだことないですけど。」
「今月から来月まで本社で長期利用のお客様を対象に無料点検サービスのキャンペンを実施しています。メッセージが送られたはずですが、もしかしてご覧になっていないでしょうか?」
「見ていませんけど。」
「ああ、そうでしたか。それでもよろしければ無料点検を受けてみませんか?お宅にはお一人ですか?」
「いいえ、一人ではなく弟がいます。点検は今は大丈夫です。代わりに名刺ください。後で申し込もうと思って。」
「もちろんです。」
日光が自分のユニフォームの中から用意していた偽の名刺を取り出そうとすると、はじめは首を振って赤見の方を指さした。
「あの方の名刺をもらいたいんですけど。あの方が先輩でしたけ?」
赤見はマスクで半分以上覆われた顔でも明らかに慌てているのを隠すために、一歩前に出た日光は、依然とした笑顔で自分の名刺を差し出した。
「赤田さんの名刺が切れてしまいましてですね。でも私たちはチームなので番号は同じです。だから私の名刺をお渡しします。」
嘘だ。先輩の偽の名刺は先輩のユニフォームの中にある。しかし、当初の計画とは異なり、こうして直接先輩の妹を見たら、やはり先輩のものをこの他人には渡したくなくなった。
日光は今まで一度決めたことは途中で心を変えることがほとんどなかった。しかし、感情という変数が加わると、もう何も確実ではなかった。分刻みで変わる気分は変だった。奇妙にも、拒否するのが難しかった。まるで先輩が自分に下す催眠命令のように。
はじめが日光の名刺を受け取った。妹と直接会ったとはいえ、今のような消極的な態度の先輩なら、先に向こう側に連絡はしてなさそうだった。だからもし向こう側から連絡が来ると、先輩じゃなく、自分通すことになる。
待て。
俺が向こうと連絡を取ることになれば、それを逆に利用できるんじゃないか?向こう側は知らないけど、いずれにせよ先輩と血でつながっている。この女性を先輩から遠ざけるのではなく、むしろ俺の方へ引き寄せるなら?それで、この女性と法的に結びつければ、その方が結局、先輩ともより安定的につながる道じゃないか?
だから、俺がこの女性と結婚するなら……。
「クッソ。何……。クソみたいな原因になるのも当然だね。用事が終わったら、もう失せろ。」
突然の罵倒と共に、はじめは扉をカーンと閉めた。廊下に残された二人の男は驚いて固まった。訪問販売のようなものを嫌う人は多い。しかし、先ほどまではこんなに攻撃的な反応ではなかったのに。しかも、通常の場合、老若男女問わず、日光の整った容姿と計算された親切さに好感を抱き、態度が徐々に和らぐものだったため、日光としてはこんな冷遇を受ける経験はほとんど初めてだった。もしかして、男には全く興味がないタイプなのか?
そうなると結婚計画は流れるけど、どうせ先ほど浮かんだばかりの希薄な可能性に過ぎない。否定的な反応を見た以上、先輩がこの妹にさらに近づかないことはほぼ確実だ。それでもここまで来たのに、先輩が母親と会えないのは困ったことだ。5泊6日の間に、先輩の母親が一人で家にいる時間を再び狙うべきか。
突然、玄関の扉がもう一度開いた。今回は先輩の母親である福瀬悦子本人が出てきて、二人の男を笑って迎えてくれた。
「うちの娘から聞いたけど、エアコンの無料点検をしてくれるですよね?ありがたくてどうしましょう。中に入って。さっきはごめんなさい。あの子が少し刺々しかったですよね?でも悪い子じゃないから、 技師さんたちが、少しだけ理解してくださいね。」
悦子の後ではじめが腕を組んで恐ろしい目つきで二人の男を睨みつけていた。日光と赤見は一度視線を交わし、家の中に入った。扉が閉じた。




