ただ美しい。
ハードボイルド・セブン
エピソード6.福世
第41話
浴室は木で壁を立てた空間に、服を置くかごとシャワー用品が簡素に置かれており、屋外の露天風呂とつながっているようだった。赤見が浴室へ向かう間、頭の中で繰り返した百回以上のシミュレーションとは異なり、日光は特にタトゥーを隠そうとはしなかった。日光は赤見から慎みもなく背を向けてシャツを脱ぎ捨てかごの中に投げ込んだ。少しもぜい肉もなく、骨と筋肉で固く引き締まった広い背中には、黒色だけで描かれた蝶が二匹位置していた。一匹は日光の右の肩甲骨に、もう一匹はそこから少し左上。タトゥーは大きくなかったが、精巧で細密だった。生きている二匹の優雅な蝶が、日光の背中に一瞬止まって休んでいるようだった。
「蝶だったのか……。」
「あああああ!」
日光は突然大きな声を上げて後ろを向いた。拳を握り、胸の上でX字に交差させた腕は、赤見と向き合うよりも、背中を隠そうとする動作のようだった。日光は目を大きく見開き、そのままで固まり、耳と首筋まで真っ赤になり、口をパクパクさせていた。断言するに、こんな間抜けみたいな日光は初めてだ。赤見はすっと笑い出した。赤見が涙を拭きながら笑い続けると、日光は腕をそっと下ろし、唇を突き出した。日光がどうあれ、赤見はくすくすと笑いながら、残りの服を脱ぎ、小さな丸い木製のかごにシャワー用品を詰め込んで外へ出た。
シャワー施設は外側の木製の壁に設けられていて、赤見は軽くシャワーを浴びてから先に湯船に入った。熱いお湯に優しく包まれた体が気持ちよかった。息をふうと吐くと、薄い白い息が温泉の蒸気と混ざり合った。一部屋に付いたこんな露天風呂なんて、豪華の極まりない。赤見は頭を上げて空を見上げた。11月末の夜空は、日光の瞳のようだった。黒くても晴れ渡っていた。そんな空にほぼ完璧な満月と数多くの星が細かく輝いている情景は、赤見も思わず微笑みを浮かべることにした。ただ美しい。こんな風景を何の考えもなく見つめることは眺めるのは、どれくらい経ったのか、全く思い出せなかった。もしかしたら母親を亡くして以来、初めてかもしれない。
おそらく日光は赤見に最高の体験をさせてあげたかったのだろう。日光はアウトドア活動を重視し、赤見が家に閉じこもっているのを不満に思っていたから、こんな露天風呂とつながった旅館は、赤見の引きこもり的な性向と健康を同時に考慮した日光なりの配慮なはずだった。だから赤見は、このすべてを感謝して楽しめばいい。どうせもう、日光への催眠術に対する悩みはしないと決めたから。
赤見は、まだ木製の浴室から出てこない日光に向かって叫んだ。
「おい!日光正義君!そろそろ出て来いよ!」
「自分で出ますよ!」
浴室から、日光が負けずにすぐに応手する声が聞こえてきた。赤見は再びくすくす笑った。とにかくプライドだけ強くて。やがて、とぼとぼと歩いて出た日光は、驚くべき速さでシャワーを済ませ、湯船に入り、赤見の隣に場所を取って座った。日光が口を固く閉ざしていたので、赤見は何度か咳払いをして先に口を開いた。
「タトゥーはやっぱり隠していたんだね?たぶんこの温泉も私と違う時間に利用しようと思っていたんだろう。でも、ここまでに来るずっと、私を連れてきた理由を説明する考えだけをして、忘れていたんだ。」
「まあ……。」
「正直に言うと、私も君が私をここに連れてきた理由をまだ分からない。」
「え?でもさっきは……。」
「さっきはただ驚いて、何か知っているふりをしただけだ。私は君が温泉旅館を宿に選んだと言った時から、君が隠しているタトゥーのことしか考えていなかった。だから、なぜ私をここに連れてきたのか聞くことも忘れていた。」
「先輩、タトゥー、知っていた……。」
「だから、今は私たち二人とも少し正直になる時だな。」
そうだろう?と尋ねる赤見に、日光は一瞬ためらった後、静かに頷いた。
「君のタトゥーについて聞いてもいいか?」
日光はしばらく温泉の表面だけを見つめ、ゆっくりと口を開いた。しかし、日光の開いた口からは何の音も出なかった。赤見はそんな日光を急かさなかった。
「私が寝ている間にこっそりここに連れてきた理由が何だか全然分からないけど、何でも許してあげる。」
「何でも、ですか。」
「そう、何でも。いずれにせよ、君が私に害を及ぼすような行動を取るはずがないことを知ってるから。」
それが『君は私の催眠術にかかっているから』という意味だと、わざわざ言う必要でもなかった。二人ともその事実を既によく知っていた。赤見は温かい湯の中に体をさらに沈めながら、話を続けた。
「タトゥー 。それを初めて知ったのは、彗星の件で君が家を出た時だった。」
「はい?どうやって?」
「君が白いTシャツを着て玄関を出ようとして背を向けた時、それが透けて見えたんだ。その時はそれが蝶だとは気づかなかった。ただ何かタトゥーだと思った。そして気になったんだ。どんなタトゥーを、いつ、なぜ入れたのか。君は。」
「……。」
「君が私を去ってから、私は君のことを知りたくなったんだ。その時はもう手遅れだった。だけど、今、私たちはまたここに一緒にいる。」
赤見は日光の肩を軽く叩き、上を指さした。日光の視線は自然に夜空へと流れた。美しい夜空を見上げる日光を見つめながら、赤見は微笑んだ。
「今ならまだ間に合うだろう。君が話したくないなら、これ以上は聞かないけど、私はただ、日光、君のことをもっと知りたいんだ。」
その言葉を聞いた日光はため息をついた。彼のため息も長い白い息となって水蒸気に混ざって消えた。
「……20代前半に見た目を気にしてからやりました。特に意味ないですよ。当時知っていた女の子がタトゥーアーティストで、自分がやってくれるって言ったからやってました。なぜ蝶なのかというと、花と蝶のセットにしてくれるって言ったんだけど、男は花はちょっとあれだと思って、蝶だけにしました。」
「そうか。じゃあ、二匹な理由は?他にあるの?」
「……その女の子が、二匹なら蝶が寂しくないからっと言って。」
「優しい人みたいだったね。」
「はい、まあ。そうかもしれないですね。」
ところで、付き合っていた人についての話は初めてだ。赤見は日光をあれこれ観察した。こんなにハンサムで、体もよくて、背も高くて、声も素敵だから、傲慢な性格と危険な職業だけ隠していれば、恋人を作るのは簡単だっただろうな。何人くらい付き合ったんだろう。今、日光は二十代後半だから、少なくとも三人くらいはいるかも。いや、三人は多すぎるか?
「何人と付き合ってみた?」
「えっ。急に何の話ですか?」
「もっと知りたいって言ったじゃないか。」
「知りたい部分がおかしいですけど。」
うーん。付き合った回数か。日光はじっくりと過去の因縁を思い返してみた。何人だろう。100人くらいか。本当に分からない。何人かは顔がぼやけていて、何人かは体がぼやけていた。それでも、付き合うまで会った人はいなかったみたいだけど。
「付き合ったことはないですね。」
「何?じゃあタトゥーアーティストの女の子は?」
「ただ知り合いの女の子だと言ったでしょう。」
「あ、そうなのか。」
「まあ、俺の方はそうですけど。先輩はどうせ童貞でしょう。」
「何……!」
「何だ、『そんな話』しようとしたんじゃないですか?ともかく先輩は見え見えだですよね。ずっと部屋にこもって、誰かと会う機会もなかったでしょう?」
「その……!それは、君も結局誰も付き合ったことがないって言ったじゃないか……。」
「え?付き合ったことがないと言っただけで、セックスしたことがないとは言ってないです。」
日光は、何となく衝撃を受けたような赤見の表情を見て、訝しいくなった。
「まあ、それは置いといて。そろそろ出ましょうか。あまりにも長く入浴するのも健康に悪いらしいですよ。俺が先輩をここまでこっそり連れてきた理由を聞いたら、先輩、倒れるかもしれないから、先に横になってたら俺が教えます。」
赤見はすでに倒れそうな気分だったので、日光の言葉に従って素直に湯船から出た。




