殺したい顔ですね。
ハードボイルド・セブン
エピソード4.春風
第29話
赤見は何週間も何も食べられなかった。日光がインターネットで見つけた離乳食や病人食のレシピを参考して、柔らかく作った料理も、口の中に少し含んだだけで吐き出してしまった。食べるという行為、生きるために必要な行為を赤見の体は納得していなかった。日光はひまわりに頼んで手に入れたビタミンの数種類を含む栄養剤を最適な配合で混ぜ合わせ、点滴液を作った。日光は力なく横たわる赤見のやせ細った腕に熟練した手つきで注射を打ち込み、椅子を引き寄せてベッドのそばに座り、これまで赤見の指示に従って調べた情報を報告した。できるだけ汚い話は先輩に聞かせたくはなかったが、このまま先輩が宇代の死を受け入れられないのも困るのは同じことだと判断したからだ。
「石原翔太さんの弟で、宇代さんの次男である石原拓也が、宇代さんに再び戸籍に受け入れてほしいと頼んだそうです。宇代さんに生命保険が何件かけられていることを知り、戸籍に入った後、殺害してその保険金を手に入れようとしたらしいです。しかし、宇代さんは石原拓也を見分けられなかったんです。アルツハイマー病にかかって2年も会っていなかったから驚くべきことでもありません。そしてその場で、つまり先輩が血を見たあの厨房で、石原拓也が本当に自分の母親を脅迫して金を奪い、それを組織に返済するつもりかどうかを監視するために同行していたヤクザが、作戦が失敗したため、宇代さんをそのまま殺して臓器でも奪おうと提案したのです。おそらくそのヤクザは最初からそのつもりだったかもしれません。それで持っていた凶器で宇代さんを刺したのですが、宇代さんを一緒に殺すためにそこまで行った石原拓也が、自分の母親が刃物で刺される姿を見て心変わりしたらしいです。厨房にあった刃物でヤクザを攻撃したそうです。これであの多くの血について説明できますよね?ヤクザは裏切った石原拓也を置き去りにして逃げ、石原拓也も宇代さんを井上病院まで連れて行き、その後行方をくらましたそうです。」
残酷な話が平坦な口調で静かに続くのを黙って聞いていた赤見が日光に尋ねた。
「石原拓也とヤクザの間の会話はどうやって分かった?春風の内部にはCCTVがない。その黒崎という情報屋が渋谷一の人物でも、そんなことまで分かるはずがないはずだけど。」
日光は少し躊躇してから答えた。
「石原拓也と関係のあるヤクザがいることはひまちゃんから聞きました。あいつが春風の向かいの店の入り口のCCTVをハッキングしてくれたんですよ。その後は俺が別途に調査したものです。そいつの首筋に描かれた菊の入れ墨から、どの組織に所属している奴かを分かりました。その組織の拠点が東京で、その組織の構成員が怪我をしたり臓器売買をする際に利用する違法医療機関もここで近かったから、それで……。」
ずっと空のどこかを朦朧と徘徊していた赤見の視線が日光に向けられた。
「あいつを捕まえたのか。」
「はい。」
「拷問して、この全ての事実を聞き出したのか。」
「はい。」
「殺した?」
「いいえ。生かしておきました。」
日光は静かに言葉を続けた。
「殺しますか。」
赤見はそうしろと言いたかった。本気で、あいつを殺してしまいたかった。皆、こんな気持ちで日光に殺人を依頼したのだろうか。そうなら理解できた。殺人を依頼する人も、殺人を犯す人も、全部理解できた。
「殺したい顔ですね。」
「そう、でも殺さない。」
赤見はベッドから上半身を起こした。起立性低血圧のため、頭がくるっとしたが、何とかバランスをとって座ることに成功した。赤見は日光が支えようとする手を押し返し、ベッドのヘッドボードに背中を付けてまっすぐに座った。
「まずは、逃走中の石原拓也を探さしてもりう。」
「そっちも探しました。あいつは昨日からそのヤクザ組織に捕まっています。」
「昨日?ずっと追跡していたのか?」
「はい。どうしたんですか?」
「なぜそいつがヤクザ組織に捕まる前に救い出さなかったのか?お前ならできたはずなのに。」
日光は意外な質問に少し慌ててしまった。
「そりゃ、あいつは先輩が守ろうとした宇代さんが死ぬことになった最大の原因ですから?おそらくヤクザたちは宇代さんの保険金を手に入れられなかった代わりに、あいつの臓器でも売ろうと捕まえたんでしょう。時間が経った分、もうすぐ死ぬから、そっちは気にしてなくてもいいです。」
日光の答えを聞いた赤見は苦笑いしながら首を振った。
「日光、理解していないんだ。私が石原拓也を探していたのは、そいつを助けるためだ。」
「はい?」
「あの男は、いずれにせよ宇代さんの子供だし、最後には宇代さんを救おうとしたんだ。あいつはどうにもならないゴミだが、だからといって死なせておきたくはない。ギャンブル依存症でヤクザに借金までしているくらいだから、おそらく今後普通の生活は不可能だろう。だから、あいつを回復施設に入れて、その命が尽きるまで生かそうとした。これが私が宇代さんに恩返しできる1番目の方法だ。」
日光は石原拓也に対する赤見の感情の流れを追うのが難しかったが、その気配をせず、賢く状況を受け入れた。
「2番目は?」
「宇代さんの復讐をする。宇代さんを攻撃した奴の組織を瓦解させる。」
「瓦解……。殺さずに警察に引き渡すということですね?」
「そう。」
「だった一人も殺さずにですね。」
「そう。」
「不可能だということ、先輩も知ってますね?あそこの人数は千人を超えてますよ。ヤクザ組織としては規模がある方ではなくても、相手が俺一人ですから。いくら俺でもやっぱり一人では無理です。」
「お前は行かなくてもいい。その部分は私が催眠術で解決する。」
日光は飛び出そうとする罵声を飲み込んで、落ち着くために窓の外を見た。7時なのに、すでに日が完全に沈んで暗くなった窓に、日光と赤見の姿が映っていた。晩夏がほぼ終わり、間もなく秋だった。その間、毎朝ニュースでは地球温暖化や異常気象など、日光とは何の関係もない話ばかりしていた。日光と何の関係もなかった理由は、日光が葬儀の後に家に引きこもっている赤見の世話をして、適温に合わせた室内だけにいたからだ。こんな暑さを感じない8月は初めてだった。涼しくて静かだった。
日光は赤見に垂れている宇代の死が気に入らなかった。気に入らなかった上、イラついた。そうでなくても静かな性格の先輩が、今ではもう植物や家具になってしまったようだった。日光はむしろ汗を流しながらでも先輩と一緒に夏の激しい暑さの下に置かれたかった。先輩は日光が自分の生命力を感じさせる唯一の人物なのに、今や自ら枯れていった。
「いいです。先輩こそ家にいてください。俺一人で何とかします。大洗でも俺が全部解決したじゃないですか。」
「直接行く。お前がついてくることまでは構わないが。」
「俺は元殺し屋です。元々誰かを守るための戦いをしたことはありません。」
「前には、ガードしたいと頼んだのに。最初から資格がなかったんだな。」
「話をそらさないでください。俺は今、一人で剣の舞を舞うことはできても、先輩を守りながら誰も殺さず、少なくとも数百人もの奴らを生け捕りにするなんて、不可能たという現実的な話をしているのです。」
「お前は私の本来の職業を忘れたみたいだ。東京にいて、賭場や臓器売買に関わり、菊の入れ墨で所属を証明するヤクザ組織は一つだけだ。正保組。そうだろう?」
日光は眉をひそめて赤見をじっと見つめた。死地に自らに攻め込んで自殺しようとしたのではなかったのか?少しでも血管に溶け込んだ点滴液のおかげか、あるいは他の理由か、赤見の顔はもう潰れたこともなく、気楽に見えた。
「正保組の組長から依頼を受けたことがある。」
「何ですって?」
「10年くらい前だけど、おそらくそっちも覚えているはずだ。その当時、対立していた相手の組織の組長の弱点を調べてくれと頼まれた。その時の相手の組織の名前は…… 思い出せないな。ともかく、そっちはもういない組織だから関係ない。」
「先輩、頭がおかしいんですか?ヤクザの組長と取引したんですか?俺が殺し屋だから怖いって言ってたのに。だから仕事も全部辞めたのに、殺し屋じゃなくてヤクザとかやればよかった。だったら先輩と早く仲良くなれたのに。」
「元々、彗星インターナショナルの件のように、民間企業の産業スパイとして働いていたのが、偶然にそっちとつながってしまっただけだ。正保組と結託していた企業の役員から、私の活躍を聞きつけたか、頼みを聞き入れないと殺すと脅した。」
「あ、そうですか?それでもよく死ななくて偉いですね、先輩。とても素晴らしいです。」
「調子に乗るな。私も強制されたんだ。ともかく、正保組の組長は相変わらず私と取引していたあの男だ。加利部豊。また『頼み事』を持ってくるかもしれないから、そっちは常に警戒していたから、よく知ってる。」
「前に仕事で危険な目に遭ったと言っていたのがこれか。わあ、ヤクザの組長と取引を?本当に狂った人だな、この人。」
日光は回転する椅子を利用してぐるぐる回りながら、虛空へむやみに足蹴にした。身長が185cmもなるのに、その姿は間違いなくわがままな小学生のようで、赤見は思わず少し笑ってしまった。
「日光、集中しろ。」
赤見は日光の頭の上に手を置き、日光の回転を止めた後、犬をあしらうようにぽりぽりと撫でた。赤見が手を離すと、日光の髪はめちゃくちゃに乱れいたが、態度はとてもおとなしくなった。
「半分は脅迫だったけど、取引は取引。そっちから要請した仕事が済んだ後、私は自分が受け取る報酬について考えてみると言って、その男から抜け出した。その後はヤクザと関わりたくなかったので、近づかなかった。だから、そっちは私に借りがあるんだ。加利部豊は、それなりに信義があり、潔癖症に近い完璧主義でその地位まで上り詰めた男だ。多分10年も経った今にしてその取引の報酬を要求しても、汚くなって終わったことを綺麗に処理する機会が来たと、私の要求を快く受け入れるだろう。」
「それはどうして確信できるのですか?」
「催眠術をかけてみたから知っている。あの男はそういうタイプだ。」
ふむ。日光は腕を組んで赤見から少し離れ、思案に沈んだ。日光が止めようが止めまいが、赤見は自分の意志を貫くだろう。赤見は柔弱そうに見えても、実は頑固だった。もちろん、日光自身がその頑固さを全て受け入れてきたという自覚もあった。それでも今回の頑固さは違った。先輩が興味を示した女性の死に関わることだ。先輩は簡単に引き下がらないだろう。
だとしても、やっぱりそんな危険に先輩をさらすわけにはいかない。自分だけでは足りなかった。信頼できる実力者は、まだ新米でも、蓮くらいか。どうせ蓮とは会って片付けるべきこともある。
「ともかく、あのヤクザの連中を捕まえる作戦があるってことですよね?」
「ある。」
「間違いなくバカげた作戦でしょう。」
赤見は怒らなかった。自分が考えるにもその通りだったからだ。




