第7章 灯火の記憶
夜遅く、アパートの部屋は静まり返っていた。楓はベッドに座り、スケッチブックを抱えていた。
今日の川辺の絵を、仕上げようとしていたが、手が止まる。
隣にいる焔(人間の姿)は、窓辺に寄りかかり、外の夜景を眺めている。赤い瞳が、遠くを見つめている。楓はそっと声をかけた。
「焔……どうしたの?
今日は、ちょっと静かだね」
焔はゆっくり振り返った。
銀髪が月明かりに透け、表情が少し寂しげに見える。
「……お前の心が、埋まり始めている。
だから、俺も……思い出すことがある」
楓はスケッチブックを閉じ、焔の隣に移動した。
ベッドの端に座り、そっと手を重ねる。
「思い出す……?
焔の、昔のこと?」焔は小さく頷いた。
「昔は、俺も守り神だった。
小さな稲荷神社で、人々の願いを聞いていた。
喜びも、悲しみも、愛も……全部、受け止めていた」
赤い瞳が、遠くを見る。
「でも、長い年月で……人間は変わった。
願いは欲望に変わり、祈りは呪いに変わった。
俺は、感情を喰らうようになった。
喰らわなければ、消えてしまうから」
楓は息を飲んだ。
「それで……感情を喰らう存在に?」
焔は静かに続けた。
「そうだ。
だが、喰らうたび、俺の心も空っぽになっていった。
誰も、俺を必要としなくなった。
ただの『厄介なもの』として、忘れられた」
楓は焔の手を強く握った。
「そんな……寂しかったよね」焔は初めて、弱々しく微笑んだ。
「寂しい、という感情すら、薄れていた。
お前に出会うまで」楓の目が潤んだ。
「私も……同じだった。
心が空っぽで、何も感じられなくて……
でも、焔が来てくれたから、温かさを知った」
焔は楓の頰に手を伸ばし、優しく触れた。
「お前の空白は、俺の空白を埋めてくれた。
俺が喰らった『無』は、もう無ではない。
お前の色で、満ちている」
楓は焔の胸に顔を寄せた。
「これからも、一緒にいよう。
私の心が完全に埋まっても……
焔の心が、空っぽにならないように」
焔は楓を抱きしめた。
九尾の尾が、優しく二人を包むように広がる。
「約束だ。
お前の灯火が消えない限り、俺はここにいる」
部屋に、静かな沈黙が流れた。
月明かりが、二人の影を優しく照らす。楓はスケッチブックを開き、最後の色を加えた。
川辺の絵に、銀髪の青年の横顔を。
赤い瞳が、優しく微笑んでいる。空白だった心に、焔の記憶という新しい色が加わった夜だった。




