第4章 雨の記憶と、君の声
雨が降り始めたのは、夕方近くだった。楓はデスクの前で、イラストの続きを描いていた。
焔は人間の姿のまま、隣の椅子に座って静かに見守っている。
銀髪が窓から差し込む薄い光に輝き、赤い瞳が穏やかだ。楓のペンが、ふと止まった。画面に描かれているのは、雨の降る街。
濡れたアスファルト、ぼんやりした街灯。
そして、倒れた傘と、血の赤。
「……っ」
楓の手が震え、ペンタブから指が離れた。焔が静かに声をかけた。
「楓……?」
楓は目を閉じた。
記憶が、雨のように降り注ぐ。――あの夜。
恋人と一緒にいた。
信号を渡ろうとした瞬間、急接近する車のライト。
衝撃。
雨の中、恋人の手が離れていく。
最後に見たのは、彼の瞳。
そして、赤い血の色。楓は胸を押さえた。
息が浅くなる。焔は立ち上がり、楓の背後に回った。
そっと、両手を楓の肩に置く。
人間の温もりが、優しく伝わる。
「思い出しているのか」
楓は小さく頷いた。
声が震える。
「……あの日から、雨が怖くなった。
描けなくなった。
感情が、全部凍りついたみたいで……」
焔は静かに言った。
「俺は、感情を喰らう存在だ。
だが、今のお前のそれは……喰らいたくない」
楓は振り返り、焔の赤い瞳を見た。
「どうして?」
焔は少し目を伏せた。
「それは……痛いからだ。
お前の心に残る痛みは、俺にとっても重い。
だから、俺は……お前の『空白』を埋めたい。
痛みを、優しい色に変えたい」
楓の目から、涙がこぼれた。
「焔……」
焔は楓をそっと抱き寄せた。
九尾の尾が、優しく楓を包むように広がる。
「泣け。
今は、泣いてもいい」
楓は焔の胸に顔を埋めた。
雨の音が、部屋に響く。
でも、初めて――雨が、ただの音に感じられた。しばらくして、楓は顔を上げた。
涙で濡れた瞳に、焔の赤い瞳が映る。
「……ありがとう。
少し、軽くなった気がする」
焔は微笑んだ。
人間の姿で、初めて見せる優しい笑み。
「それでいい。
少しずつ、埋めていこう」
楓はデスクに戻り、ペンタブを握った。
画面の雨の絵に、ゆっくり色を加える。
赤い血の部分に、淡いオレンジを重ねる。
それは、夕陽のような温かさ。焔は隣で静かに見守った。
「その色……お前の心の色だ」
楓は小さく頷いた。
「うん。焔がくれた、温もり」
雨は止み、窓の外に虹がかかっていた。
二人は肩を寄せ合い、静かに絵を見つめた。空白のキャンバスに、雨の記憶が、優しい色に変わり始めた。




