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第2章 初めての色

アパートの部屋は、いつもと同じ静けさだった。楓はデスクに戻り、ペンタブを握った。

キャンバスはまだ白い。

昨夜の雨の記憶だけが、ぼんやりと残っている。肩に小さな重み。焔が小型の狐姿でちょこんと乗っていた。

白い毛並みが、部屋の蛍光灯の下で柔らかく光る。

赤い瞳が、楓の横顔をじっと見つめている。


「……何も描かないのか」


低く、落ち着いた声。

昨夜の威圧感はなく、ただ静かに問いかける。楓はペンを置いた。


「描けない。

何を描けばいいのか、わからない」焔は尻尾をゆっくり振った。


「感情がないからだ。

お前の心は、空っぽのキャンバスと同じ。

色がない」


楓は左手首の紋章を無意識に撫でた。

赤い狐の印が、かすかに温かい。


「それで……あなたは、私の感情を喰らうの?」


「そうだ。

だが、今のお前からは、何も喰らえない。

空っぽすぎる」


焔は肩から飛び降り、デスクの上に座った。

小さな体で、キャンバスを覗き込む。


「だから、俺が少し……埋めてやる」焔の赤い瞳が光った。

淡い赤い粒子が、楓の胸元に流れ込む。

ほんのわずか。

でも、胸の奥が、ぽっと温かくなった。楓は息を飲んだ。


「……今、何か……感じた」


「初めての『温もり』だ。

お前の心に、俺が灯した灯火」


楓は自分の胸に手を当てた。

確かに、冷えていた場所が、少しだけ柔らかくなっている。


「でも……これで、感情が戻るの?」


焔は首を振った。


「戻すのではない。

新しく、生み出す。

お前が感じることを、俺が与える。

代わりに、お前は俺に……『空っぽ』をくれる」


楓は焔を見た。

赤い瞳に、初めて――優しさが浮かんでいるように見えた。


「じゃあ……今日は、何を描けばいい?」


焔は尻尾をぴょんと振った。「俺を描け。

今のお前が見ている、俺を」


楓はペンタブを手に取った。

指が、少し震える。画面に、ゆっくり線を引く。

白い毛並み。

九つの尾。

赤い瞳。初めて、自分の手が動いた。

色を乗せていく。

白に、淡い青。

瞳に、深い赤。焔は黙って見守っていた。30分後、キャンバスに一枚のイラストが完成した。

小型の白狐が、赤い瞳でこちらを見ている。

背景はぼんやりとした夜の神社。

朱の鳥居が、遠くに浮かぶ。楓は画面を見つめた。

涙が、一滴落ちた。


「……描けた。

初めて、自分の絵を……」


焔は静かに言った。


「それが、お前の最初の『色』だ。

俺が与えた、温もりで生まれた色」


楓は焔を抱き上げた。

ふわふわの毛並みが、頰に触れる。

温かい。


「ありがとう……焔」


焔は赤い瞳を細めた。

尻尾が、楓の手に優しく絡まる。


「礼など、要らん。

ただ……もっと、感じろ。

お前の心を、俺に預けろ」


楓は頷いた。


「うん。

少しずつ……埋めていこう」


窓の外で、雨が止んだ。

月明かりが部屋を照らす。

空白のキャンバスに、初めての色が宿った夜だった。



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