第1章 空っぽのキャンバス
雨の音が、アパートの窓を叩いていた。天神楓はデスクの前で、ペンタブを握ったまま固まっていた。
画面には白いキャンバスだけ。
今日も、何も描けなかった。25歳。フリーランスのイラストレーター。
依頼はこなすが、自分の絵はもう何年も描いていない。
恋人を失ったあの事故以来、心のどこかが欠けたままだった。
「……また、空白か」
ため息をついて立ち上がり、キッチンでインスタントコーヒーを淹れる。
カップを手に、窓辺に寄りかかる。
外は夜の雨。街灯がぼんやり滲む。ふと、視界の端に白い影が揺れた。楓は目を凝らした。
アパートの向かいの廃れた神社――古い鳥居の奥から、何かがこちらを見ている。白い毛並み。九つの尾。
赤い瞳が、闇の中で静かに輝いていた。
「……幻覚?」
カップを置いて、楓はコートを羽織った。
雨の中、傘も差さずに神社へ向かう。
なぜか、足が自然に動いた。鳥居をくぐると、祠の前に巨大な白狐が座っていた。
体長は5メートル近く。牙を剥き、赤い目が楓を捉える。
「人間……お前は、空っぽだな」
低く、響く声。
狐の口が動いている。楓は後ずさりしそうになったが、なぜか動けなかった。
「空っぽ……?」「感情がない。
欲がない。
そんな心は、喰らいがいがない」
狐――焔はゆっくり首を下げ、楓の顔を覗き込んだ。
熱い息が頰にかかる。
「だが……面白い。
お前のような空洞に、初めて出会った」
楓は震える声で聞いた。
「あなたは……何?」
「焔。
この社の古い守り手。
今は、ただの感情喰らいだ」
赤い瞳が細くなる。
「契約しよう、楓。
お前の空っぽな心を、俺に預けろ。
代わりに……少しずつ、埋めてやる」
楓は息を飲んだ。
「埋める……?」
「そうだ。
俺が喰らうのは、お前の『無』だ。
それが減れば、お前は少しずつ……感じるようになる」
楓は沈黙した。
雨が髪を濡らす。
胸の奥で、何かが疼いた。
「……いいよ。契約する」
焔の瞳が輝いた。
「よかろう」赤い光が爆発し、楓の左手首に小さな狐の紋章が浮かぶ。焔の体が縮み、小型狐の姿に変わった。
ふわふわの白い毛並みで、楓の肩に飛び乗る。
「これから、よろしくな。空っぽのイラストレーター」
楓は肩の温かさに、初めて――ほんの少し、胸が動いた気がした。雨が止み、月が顔を出した。
二人は神社を後にし、アパートへ戻る。空白のキャンバスに、初めて小さな色が差した夜だった。




