■第3章「選ばれなかった声」:二話(静かでいい夜)
その夜、島の灯りは少しだけ少なかった。
少しだけ、というのが重要だった。
多くは残っていた。
残っているから、奪われたとは言えなかった。
港へ続く道の提灯が、一本おきに外されていた。
外された提灯の針金は残り、空の輪だけが風に揺れていた。
誰かが外したのではない。
外した、というより、間引かれた。
間引かれる、という言葉には、丁寧さがある。
丁寧さは、反対の入口を塞ぐ。
役場の掲示板に紙が貼られていた。
紙の端はきちんと揃っている。
字も揃っている。
そこに書かれている言葉も、揃っている。
導線確保のため。
混雑防止のため。
安全のため。
係員配置の見直しについて。
理由は十分だった。
十分であるほど、質問は減る。
質問が減るほど、決まったことが残る。
金栄座の前に立つと、看板灯の明るさが控えめになっているのが分かった。
白が少し黄に寄り、輪郭が柔らかい。
以前は遠くの海面まで照らしていた。
今日は、劇場の正面だけを照らしている。
入口の左右に縄が張られ、入る道と出る道が分けられていた。
縄は新品で、繊維がまだ硬い。
手で触れれば痛いほどだった。
痛いほど新しいものは、安心の形をしている。
人は集まっていた。
集まっているのに、騒がしくない。
騒がしくないのに、寂しくない。
そう感じられる程度に、ちょうどよく整えられていた。
子どもたちは走ろうとして、途中で速度を落とした。
縄があるからではない。
縄があることに気づくより早く、足が覚えてしまうからだ。
覚えた足は、迷わない。
迷わない動きは、正しい動きに見える。
劇場の係の者が立っていた。
これまでより少しだけ多い。
多いことは頼もしい。
頼もしいことは、正しい。
入場口で小さな札が配られた。
番号の書かれた札だった。
一番。
二番。
三番。
四番。
笑いが起きた。
札を受け取った者が、冗談めかして言う。
「今日は席まで案内してくれるのか」
係の者は笑って頷く。
頷くことで、その札は遊びになる。
札は遊びの形をしていた。
遊びの形をしていれば、管理は滑らかに入る。
客席に入ると、立ち見のための空間が縄で閉じられていた。
閉じられているのに、圧迫感はない。
むしろ見やすい。
見やすいという感想が先に出る。
舞台がよく見える。
通路が広い。
人の影が少ない。
影が少ないと、安心する。
誰かが小さな声で言った。
「静かでいいな」
その言葉は不満ではなかった。
礼儀でもなかった。
ただ感想だった。
感想には反論しにくい。
反論するほどの理由がない。
理由がないから、頷きが返る。
上演が始まる。
役者の声がよく通る。
通るのは、観客が静かだからだ。
静かなのは、整っているからだ。
整っているのは、正しい理由があるからだ。
導線確保のため。
混雑防止のため。
安全のため。
舞台上の笑いが、客席の笑いと重なる。
重なるのに、広がらない。
広がらないのに、消えない。
笑いは管理されていない。
管理されていないのに、形が揃っている。
それが心地よかった。
心地よさは、疑問を休ませる。
幕間に外へ出ると、海が黒く見えた。
以前は海面に灯りが散っていた。
今日は散っていない。
散っていないぶん、空が広い。
空が広いと、息がしやすい。
息がしやすいと、落ち着く。
落ち着くと、戻りたくなる。
戻りたくなる場所は、安全だと感じる。
港の方角に、灯りのない船影がいくつか見えた。
影は動かない。
動かないものは、背景になる。
背景になれば、数えない。
数えないのは、必要がないからだ。
必要がないと思えるのは、困っていないからだ。
劇場の裏口で、係の者が札を回収していた。
回収は丁寧だった。
丁寧であるほど、拒否しにくい。
拒否しにくいほど、手続きは残る。
回収箱は木で作られ、口が広く、誰でも入れやすい形だった。
入れやすい形は、入れない人を目立たせる。
目立つことは、恥に似ている。
恥は誰も責めない。
責めないぶん、よく効く。
札を返しそびれた女が一人いた。
子どもを抱え、腰の袋を探り、手が止まる。
止まった瞬間、列の流れが少しだけ乱れる。
係の者が笑顔で言った。
「大丈夫ですよ、こちらへどうぞ」
女は笑って「すみません」と言いながら札を差し出した。
誰も怒らない。
誰も責めない。
ただ、女の頬だけが一瞬熱くなる。
熱くなるのは、恥が通った証拠だった。
札は束ねられた。
束ねられた札は、ただの紙になる。
ただの紙になった瞬間、誰もそれを見ない。
それでも手続きは記録される。
記録されるのに、重くない。
重くないように作られている。
二幕が始まる。
観客は静かに座る。
静かに座れるのは、座る位置が決まっているからだ。
決まっていることは、楽だ。
楽であることは、良いことだ。
良いことは、続けたい。
続けたいから、慣れる。
慣れると、以前の状態を思い出すのが面倒になる。
面倒になると、以前は余計に見える。
余計は減らされる。
減らされると、さらに見やすくなる。
見やすさは、正しさと似ている。
正しさは、反論の形を奪う。
上演が終わり、観客が外へ出る。
出る道は決められている。
決められているから、ぶつからない。
ぶつからないから、誰も怒らない。
怒らない夜は、良い夜だ。
良い夜だと思ってしまう。
思ってしまうことが、次の夜を決める。
その夜から何度か、同じ紙が掲示板に貼られ続けた。
潮で汚れ、角が丸くなり、釘穴の周りだけ黒ずむころには、読もうとする者も減っていた。
読まなくても言葉は覚えられる。
覚えられた言葉は、説明ではなく合言葉になる。
導線確保のため。
混雑防止のため。
安全のため。
金栄座の縄は、いつの間にか毛羽立った。
毛羽立つほど、触れた手が増えたということだ。
触れた手が増えるほど、縄は生活の一部になる。
札の束も薄く汚れ、墨が指に移るようになった。
指に移ると、洗っても完全には落ちない。
落ちないものは、残る。
残るものほど、最初からあった顔をする。
ある夜、係の者が言った。
「昨日は事故もなく、よかったですね」
よかった、という言葉は万能だった。
万能な言葉は、具体を消す。
具体が消えると、比較ができなくなる。
比較ができないと、戻る道が見えなくなる。
その夜も、灯りは少しだけ少なかった。
少しだけ、というのが重要だった。
少しだけで済むうちは、誰も困らない。
困らないうちは、誰も言わない。
言わないうちに、感覚は揃う。
揃った感覚は、正しいと呼ばれる。
誰かがまた言った。
「静かでいい夜だ」
その言葉は、前より自然に出た。
自然に出た言葉は、もう選ばれている。
そしてその夜、誰も気づかなかった。
提灯の数ではなく、係の者の立つ位置が増えていたことに。
灯りは減っても、見張る目は整っていく。
整った目は、夜の形を先に決める。
――次に削られるのは夜ではなく、“夜を好きだと思う自由”だった。




