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■第3章「選ばれなかった声」:一話(番号の横にある名前)

島の朝は、いつも同じ音から始まった。

港の方から短い汽笛が届き、濡れた木材の匂いが風に混じった。

坑口へ向かう足音は急がず、急げるほどの余裕があることを示していた。

その余裕が、島の誇りだった。

貼り紙が出てから、三日が過ぎていた。

三日、という数は短い。

けれど桟橋の板がもう一度濡れ、もう一度乾くあいだに、人の目は驚くほど早く慣れる。

慣れる速度は、生活の速度だった。

島はもう、番号を“知っている”状態になっていた。

役場の奥の小部屋で、割当表を作る男は机に紙束を置いた。

紙の角を揃える。

揃えてから、鉛筆を削る。

削ってから、名簿を開く。

順番は毎日同じだった。

同じ順番は、安心に似ている。

安心に似ているものは、正しい顔をする。

名簿には名前が並んでいた。

佐吉。

源蔵。

久一。

芳江。

姓は書かれないことが多い。

この島では、それで足りた。

足りているものを、余計に増やす必要はない。

男はそう思っていた。

思いながらも、増えるものは増えることを知っていた。

増えたものは、いつも「守るため」に来る。

守るため、という言い方は便利だった。

便利な言い方は、止める入口を塞ぐ。

その日、紙束の一番上に新しい用紙が挟まっていた。

白が少し強い。

紙質が違う。

指先が滑り、角が揃いにくい。

揃いにくさは、苛立ちではなく違和感だった。

違和感は、仕事の前ではたいてい後回しになる。

用紙の左上に、朱い印が押されていた。

達。

という字が読める。

差出名はなく、番号だけが細い活字で並んでいた。

番号は、人の名と違って揺れない。

揺れないものは、間違いにくい。

間違いにくいものは、安全に見える。

見出しがあった。

「作業割当の簡略化について」

見出しは丁寧で、文字の大きさも揃っている。

文は短く、句点が少ない。

読ませる文章ではなく、通す文章だった。

内容は単純だった。

人数が増え、港と坑道の導線が重なり、混乱が出る。

混乱は事故につながる。

事故は止まる。

止まれば損が出る。

損が出れば、島は守れない。

最後にこう書かれていた。

暫定的に、番号を併用する。

混乱防止のため。

安全確保のため。

男は紙を置き、鉛筆の芯を指で撫でた。

芯は尖っている。

尖っているほど、線は細くなる。

細い線は、後から見ても揺れが少ない。

揺れが少ないというだけで、安心する。

番号を振る。

それだけのことだ。

名前が消えるわけではない。

男はそう整理した。

整理できることに、少し安心した。

安心は便利だった。

便利なものほど、早く使う癖がつく。

扉が開き、坑道係の年配の男が顔を出した。

「今日の割当、早いか」

「もう少しです」

返事は短い。

短いほど、仕事は回る。

回る仕事は、誰も疑わない。

疑わない仕事は、いつの間にか制度になる。

割当表の枠は、昨日と同じように引かれていた。

男はそこへ名前を書き入れる。

佐吉。

源蔵。

久一。

芳江。

書いてから、ふと止まった。

新しい用紙には、名前の欄の左に細い枠が増えている。

枠の上には小さく、数字、と印字されていた。

印字は均一だ。

均一は美しい。

美しいものは、正しく見える。

男は鉛筆を持ち直し、枠の中に一から順に数字を書いた。

一。

二。

三。

四。

数字は書きやすい。

形が固定されている。

名前は人によって揺れる。

同じ音でも、書き癖が出る。

数字は癖が出にくい。

だから正しい。

男はそう思い、思ったことを特に問題だとは感じなかった。

問題だと感じないことが、問題の入口を塞ぐ。

昼前、港の掲示板に割当表が貼られた。

紙の端が潮風でめくれないよう、四隅が釘で留められる。

釘はいつもより一本多かった。

紙が軽いからだ。

軽いものほど、扱いやすい。

扱いやすいものほど、広がりやすい。

集まった男たちは、まず数字を見た。

視線が左の枠へ寄る。

それから名前へ滑る。

滑る速さが、昨日より少しだけ速い。

速さは効率に見える。

効率は正しさに似ている。

「一番は佐吉か」

誰かが言った。

言い方は、いつも通りだ。

いつも通りであることが、この変更の勝ち方だった。

佐吉が笑って手を上げた。

「一番は嫌だな、監督に見られる」

笑いが起きた。

笑いが起きるなら、問題ではない。

男はそう判断した。

判断は早いほど楽だ。

楽な判断は、次も呼ばれる。

源蔵が紙を指で叩いた。

「二番、南の坑」

言いながら源蔵は自分の名前を見る。

その前に、二番を見る。

二番が先に口に出る。

「二番が南」

誰かが復唱した。

復唱もまた、数字から始まった。

数字から始まる復唱は、確認に見える。

確認は安全に似ている。

男はそれを聞き、胸のどこかが静かに締まるのを感じた。

締まる理由を言葉にしようとして、やめた。

理由を言葉にすれば、余計な会話が増える。

増えた会話は、作業を遅らせる。

遅れは混乱につながる。

混乱は事故につながる。

紙に書かれていた論理が、頭の中でそのまま再生された。

男はそれに納得し、納得してしまう自分を責めなかった。

責めない空気は優しい。

優しさは、反対を言いにくくする。

午後、役場の小部屋に戻ると、机の上に古い名簿が開かれていた。

誰かが参照に使ったのだろう。

ページの端が少し折れている。

男は折れを伸ばし、角を揃えた。

揃える動作は落ち着く。

落ち着く動作は、続きを考えなくて済む。

古い名簿には番号がない。

名前だけが並んでいる。

その並びは少し不揃いで、墨の濃さも違う。

だが、その不揃いが島の呼吸のように見えた。

呼吸は一定ではない。

一定ではないものが、生きている。

男は新しい用紙を重ねて比べた。

新しい用紙は白く、均一だ。

均一は見やすい。

見やすいものは間違えにくい。

間違えにくいものは安全だ。

安全という言葉が、机の上で重く見えた。

重く見えたが、持ち上げるほどではなかった。

持ち上げなければ、仕事は続く。

続けば、今日の暮らしは守れる。

守れる、という言葉は万能だった。

万能な言葉は、具体を消す。

夕方、金栄座の裏口から子どもたちの声が聞こえた。

役者にまとわりつき、名前を呼んでいる。

「兄さん、今日も死ぬの」

「今日は死なない」

笑い声がはね、提灯の灯りが揺れた。

名前は生きている。

男はそう思い、少しだけ安心した。

安心は便利だった。

便利なものほど、早く使う癖がつく。

そのとき、裏口から出てきた若い役者が子どもに呼び止められた。

子どもは役者の名を呼ぼうとして、舌を一度噛んだ。

「えっと、……あの、ほら」

役者は笑って身をかがめた。

「どうした」

子どもは指で数えるように空をなぞり、ようやく言った。

「……三番の兄さん」

笑いが起きた。

誰も責めない笑いだった。

責めない笑いほど、後から残る。

役者は笑ったまま頷き、子どもの頭を軽く撫でた。

撫でられた子どもは嬉しそうに走っていった。

嬉しそうであることが、この変更の勝ち方だった。

夜、割当表の控えを綴じる。

綴じる前に、男は指先で数字の欄を撫でた。

紙が滑る。

滑りは、明日も同じになる。

同じになるものは、習慣になる。

習慣は、戻り方を忘れさせる。

翌日以降、数字は増える。

増えても名前は残る。

残る限り、誰も困らない。

困らない限り、誰も言わない。

言わないまま、枠だけが増える。

男は名簿の端に小さく書き足した。

番号併用、開始。

混乱防止。

安全確保。

書き終え、鉛筆を置いた。

置いてから、紙の角を揃えた。

揃えた瞬間、机の上から島のざわめきが少し遠のいた気がした。

遠のいたのは音ではない。

人の気配の濃さだった。

濃さが薄くなると、作業が軽くなる。

軽い作業は正しい。

正しい作業は、また呼ばれる。

その夜、掲示板の前で誰かが言った。

「番号って、便利だな」

言い方は感想だった。

感想は反論しにくい。

反論しにくいものほど、定着する。

数日が過ぎるうちに、紙は一度貼り替えられた。

角が少し丸くなったころには、釘の本数を数える者もいなくなった。

そしてある朝、割当表の左の枠は、もう「暫定」とは書かれていなかった。

誰もそれを消した記憶がない。

消した記憶がないものほど、最初から無かったことになる。

男は気づく。

自分が名前を探すとき、先に数字を見ていることに。

順番が変わっただけだ。

順番が変わっただけで、呼び方が変わり始める。

呼び方が変われば、返事の速さが変わる。

返事の速さが変われば、段取りが先に走る。

段取りが先に走れば、名前は遅れる。

遅れたものは、いつか邪魔になる。

男はその論理を理解してしまい、理解してしまう自分を責めなかった。

責めなければ、今日も眠れる。

眠れれば、明日も働ける。

働ければ、暮らしは守れる。

守れる。

守れるという言葉は、いつからか選択の言葉になっていた。

選ぶしかない。

それでも、選ぶ。

その選び方は、いつも正しい顔で来る。

――次に削られるのは、名前ではなく、“名前を確かめる時間”だった。


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