■第2章「夢の島」:三話(島が輝いていた頃)
夜になると、島は昼よりも明るくなった。
家々の窓に灯りが入り、港の街灯が海面を照らす。
金栄座の看板灯が点くと、それを合図に人が動き出す。
仕事を終えた鉱夫たちが作業服のまま家を出る。
子どもたちは浴衣に着替え、走り回る。
島は夜に息をしていた。
昼の疲れが、夜の灯りでほどけていく。
金は希望だった。
だがそれは欲望の象徴ではない。
未来の形として、そこにあった。
子どもを本土の学校へやるために貯金を始めた者がいた。
店を広げる夢を語る者もいた。
劇場を常設にし、島外から一座を呼びたいと言い出す者もいた。
夢は違っても、語られる場所は同じだった。
金栄座の前。
灯りの下。
人が集まるところ。
その夜の港は、匂いが多かった。
揚げ油の匂い。
醤油の匂い。
潮の匂い。
新品の縄の匂い。
匂いが混じるのは、物が増えた証拠だった。
物が増えると、呼び合う声が増える。
声が増えると、島は大きくなった気がする。
屋台の前で、母親が子どもの名を呼ぶ。
「芳江、こっち」
子どもが振り向く。
振り向くことに迷いがない。
迷いがない夜は、人を安心させる。
安心は、疑いを休ませる。
金栄座の前では、役者が客を待っていた。
待つ、という余裕があった。
余裕は、島が“足りている”証拠だった。
看板灯の白が強く、文字の輪郭が少し飛ぶ。
それでも傾いた筆跡は残っている。
残っているものは、誰かのものだ。
誰かのものがある場所は、仮ではない。
幕が上がる前、子どもたちは舞台裏へ回り込む。
役者の袖を引いて聞く。
「兄さん、今日は死ぬの」
役者が笑って返す。
「今日は死なない。代わりに泣く」
笑いが起きる。
笑いが起きると、夜が繋がる。
繋がる夜がある限り、人は孤立しない。
島はその頃、うまく回っていた。
金があり、人がいて、名前があり、未来が語られていた。
うまく回る、という言葉は祝福に見える。
祝福に見える言葉は、反対の入口を塞ぐ。
だから島の人々は、整っていくことを止めなかった。
止めなかったのは、止める理由がなかったからだ。
祭りが一度回り、もう一度回ったころ。
屋台の配置は自然に決まり、導線ができた。
子どもの走る道が危ないと言われ、綱が張られた。
喧嘩が起きないように、酒場の席順が暗黙に揃えられた。
誰かが命じたわけではない。
皆が“揉めないために”選んだだけだ。
揉めないための選択は、たいてい正しい顔をしている。
正しい顔をしたものは、疑う対象にならない。
金鉱は安定して稼働していた。
店は賑わい、学校は子どもで溢れていた。
坑道の交代時間。
荷の搬出手順。
酒場の閉店時刻。
すべてが「うまく回る」ように整えられていた。
整い方は自然だった。
必要に応じて、最も無駄のない形が選ばれただけだ。
最も無駄のない形は、正しい顔をする。
正しい顔をするものは、人を安心させる。
安心は、問いを不要にする。
ただ一つだけ、記録に残らない違和感があった。
島の沖合に、見慣れない船が停泊していたという証言。
祭りの最中でも、静かに沖に留まっていた船。
灯りを落とし、音も立てず、ただそこにあった。
測量に似た作業をしていた、という断片的な記述もある。
だが、それを問題視した者はいなかった。
理由は単純だった。
島は忙しかった。
そして満ちていた。
満ちているとき、人は数えない。
数えないものは背景になる。
背景になれば、存在は問われない。
高島は古い祭りの写真を何枚も見つけていた。
提灯が連なり、太鼓を叩く子どもたち。
屋台の前で笑う家族。
画面の端には、坑道の入口が写り込んでいる。
写真はどれも少しずつ傾いている。
だが高島はそれを机の上で揃え直した。
角を揃え、順番を整え、傾きを消す。
整えた写真は美しかった。
美しいものは、意味が固定されやすい。
――輝いていた。
その言葉が自然に浮かんだ。
島は輝いていた。
輝きは金ではなく、選べることの数だった。
残る。
出る。
学ばせる。
建て替える。
広げる。
島の人々は、選ぶしかなかったのではない。
それでも、選んだ。
選んだと言えることが、ここでは幸福だった。
その年、祭りの規模は一回り大きくなった。
人が増えたからだ。
安全のため、役割が割り振られた。
混乱はなかった。
むしろ例年よりスムーズだった。
スムーズ、という言葉は便利だ。
便利な言葉ほど、影を薄くする。
高島は資料に線を引いた。
――完成。
完成したものは美しい。
だが完成したものは、変えられる。
変えるときほど、正しい理由が並ぶ。
正しい理由が並ぶと、人は黙る。
写真を見ているうちに、高島は島の人々を「例」として見始めている自分に気づいた。
成功例。
発展モデル。
地方資源活用の典型。
言葉を選べば島は教材になる。
整えれば論文になる。
その視線に微かな熱があった。
使命感とは違う。
だが無関係でもない。
熱は正しさに絡まると、自分でもほどけなくなる。
彼は写真を裏返した。
裏には簡単な書き込みがある。
「今年は人が多い」
それは喜びの言葉だ。
だが高島はそこに別の意味を読み取ってしまった。
人が多い。
把握できる。
分類できる。
管理できる。
その瞬間、彼は自分が何を考えているのかを理解し、同時に考えを止めなかった。
止めなかったことが、選択になる。
選択はいつも、正しさの顔でやってくる。
金栄座の舞台袖で、古参の役者が提灯を見上げて言ったという。
「明るすぎるな」
誰も返事をしなかった。
返事をする必要がないほど、その夜はうまくいっていた。
灯りは島全体を照らしていた。
影が、どこにも残らないほどに。
高島は最後に一枚の写真を選び、束の一番上に置いた。
金栄座の正面。
満員の観客。
看板灯が白く飛んでいる。
彼はその写真だけを、他より丁寧に揃えた。
揃える癖はもう安心のためではなかった。
意味を固定するための動作になっていた。
島が最も輝いていた瞬間を、「完成」として保存するための。
完成したものは、壊すのがいちばん簡単だ。
――壊す理由は、いつも正しい。




