表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/29

■第2章「夢の島」:二話(名前で呼ばれる日々)

金鉱の稼働が本格化すると、島の人口は急に増えた。

港に着く船の数が増え、荷の種類が増え、桟橋の上を歩く足音が増えた。

それでもしばらくの間、島では人々は互いの顔と名前を覚えていた。

覚えることが礼儀ではなく、生活に必要だったからだ。

港に新しい船が着くたび、誰が来たのか、どこに配属されたのかが自然と共有される。

噂話ではない。

生活に必要な情報として、名前は行き渡った。

誰が坑道へ入るのか。

誰が倉庫を回すのか。

誰が夜の見回りに出るのか。

名前が分かれば、順番が決まる。

順番が決まれば、迷わない。

迷わなければ、島は回る。

坑道に入る鉱夫は、番号ではなく名前で呼ばれた。

「佐吉、今日は南の坑だ」

「源蔵、昨日の続き頼むぞ」

声は短い。

命令口調でもない。

だがそこに疑問は挟まらなかった。

呼ばれた者は頷き、呼んだ者は次の名前を探す。

名前で呼ぶことは、効率が悪い。

時間がかかるし、覚える手間もある。

それでも島では、誰もその非効率を問題にしなかった。

問題にしないのは、問題にならなかったからだ。

名前で呼べば、責任の所在が自然に立つ。

立てば、助ける順番も自然に立つ。

坑道で何かが起きたとき、呼ばれるのは役職ではなく人だった。

「久一、縄を持て」

「芳江、灯りを」

呼ばれると、人は動く。

動くのは命令に従うからではない。

呼ばれたことが、自分がここにいる証拠だからだ。

酒場の女将は、島に来たばかりの若者の名をすぐに覚えた。

何度も呼び、何度も間違え、最後に正しい音だけが残る。

「違うよ、俺は――」

「はいはい、分かった。あんたは――だね」

呼ばれるたび、若者はこの島に居場所を得ていった。

居場所は家ではなく、返事が返る場所だった。

返事が返る場所に、人は根を下ろす。

学校でも同じだった。

教師は一人一人の癖を知っていた。

字の癖。

声の大きさ。

黙るタイミング。

成績より先に、名前が出てくる。

「――、その字は好きだ」

「――、今日は声が小さい」

名前を伴う言葉は逃げ場がない。

逃げ場がないから、人は自分で直す。

合理的だから守るのではない。

呼ばれるから直す。

呼ばれる島では、規則が少なくても秩序が残る。

夕方、金栄座の裏口では、役者たちが子どもに声をかけられていた。

「おじさん、今日も死ぬの?」

「今日は死なない。代わりに泣く」

笑いが起きる。

子どもは役者の名前を覚え、役者は子どもの名を聞き返す。

聞き返すのは芝居の外側の言葉だ。

外側の言葉がある場所は、仮の場所ではない。

金栄座は島の中心だった。

娯楽の中心であり、集会所であり、

何より「ここに集まる理由」を作る場所だった。

理由がある夜は、人を長生きさせる。

長生きする人が増えると、島は続くと思える。

だが、潮が温くなるころから、少しずつ変わった。

呼び間違いが増えた。

知らない顔が増えた。

「誰だっけ」と笑って済ませられる回数が増えた。

笑って済ませられるうちは、まだ幸福に見える。

幸福に見えるものほど、修正は遅れる。

港で荷を運ぶ若者が、別の若者に声をかけた。

「おい、新しい方、こっち」

呼び方が便利だった。

便利な呼び方は、誰も傷つけない。

傷つけないから、止めにくい。

酒場でも同じだった。

「いつもの」だけで通じる客が減った。

代わりに、「あの席の人」「青い作業服の人」が増えた。

言い方は丁寧だった。

丁寧な言い方は、乱暴に聞こえない。

乱暴に聞こえないまま、名前の出番が減る。

「ここの人は、みんな親切だな」

島外の人間がそう言うことが増えた。

親切、という言葉は便利だった。

便利な言葉は意味を運ぶ。

親切=扱いやすい。

把握しやすい。

従順。

言い換えは静かに進む。

その頃、坑道では小さな事故が続いた。

重大ではない。

擦り傷。

工具の置き忘れ。

交代の行き違い。

誰も悪くない。

ただ、人が増えた。

人が増えると、返事が遅れる。

返事が遅れると、段取りが先に走る。

港に貼り紙が出たのは、坑道の湯気が白くなる季節だった。

紙は新しく、角はきっちり揃い、墨の字が読みやすい。

「作業割当の簡略化について」

人数が増えたため、暫定的に番号を併用する。

仮の措置。効率化のため。混乱防止。安全確保。

丁寧で正しい言葉が並んでいた。

正しい言葉は、反対の入口を塞ぐ。

誰も反対しなかった。

名前が消えたわけではない。

ただ補助として番号が付いただけだ。

島の人々はそれを「進歩」だと受け取った。

貼り紙の前で、誰かが笑った。

「覚えなくていいのは楽だな」

笑いは軽かった。

軽い笑いほど、後から刃になる。

楽だと思った瞬間、戻る理由が一つ減る。

戻る理由が減るほど、変化は“正しい方”へ傾く。

番号は、誰も責めない。

番号は、誰も間違えない。

間違えないものは、安心を連れてくる。

安心は、問いを眠らせる。

眠った問いの場所に、次の手順が入ってくる。

高島は古い名簿を見つけたとき、そのことを強く感じた。

鉱夫名簿。

教師名簿。

劇場の出演者一覧。

整然としているが、分類は粗い。

効率を考えれば、もっと整理できる。

職種ごと。

年齢ごと。

技能ごと。

そう分ければ管理は容易になる。

だが、そうはなっていない。

管理する必要がなかった。

名前で呼べば十分だった。

高島は名簿のページを一枚ずつ並べた。

角を揃え、順番を整える。

整えながら、頭の中で言葉が勝手に並ぶ。

把握。

分類。

段取り。

安全。

合理。

そう考えてしまう自分が、少しだけ嫌だった。

嫌だと思いながら、手は止まらない。

揃えることで島の輪郭が明確になる。

明確になれば理解できる。

理解できれば扱える。

扱える、という言葉が口の中で冷たかった。

当時、島には簡単な決まりがいくつかあった。

祭りの日程。

坑道の交代時間。

酒場の閉店時刻。

決まりは少ない。

だが守られていた。

守られていた理由は「正しいから」ではない。

破れば、誰かの名前が呼ばれるからだ。

「おい、――、それは違うだろ」

名前で呼ばれる注意は逃げ場がない。

逃げ場がないから、人は自分で修正する。

島の幸福は、非合理の上に成り立っている。

だからこそ、美しい。

そして同時に、だからこそ危うい。

高島は貼り紙の写しを資料の一番上に置いた。

角を揃え、他の資料と重ねる。

そして、こう書き添えた。

――ここから、変わる。

その頃、金栄座の楽屋で、役者の一人が言ったという。

「名前、呼ばれなくなったな」

冗談のような声だった。

笑いも起きた。

笑いが起きたことが、この変更の勝ち方だった。

――次に削られるのは、名前ではなく、“名前を呼ぶ癖”だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ