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■第2章「夢の島」:一話(必要とされた島)

島が変わり始めたのは、金鉱の存在が確かめられた頃からだった。

それまでは漁と、わずかな畑に頼るだけの島だった。

海図の片隅に記号のように置かれ、本土から見れば「ある」と言うには遠い。

若者は働き口を求めて渡り、残るのは老人と子どもが多かった。

島に未来があるかと問われれば、誰も即答できなかった。

即答できない問いは、日々の段取りに押し流される。

押し流されるうちは、島は穏やかだった。

だが金が出た。

最初は半信半疑だった。

鉱脈が確認され、試掘が成功し、報告書が正式に上がるまで、島は何度も「一時の話だろう」と言い合った。

一時、という言葉は失望の予防線でもあった。

期待しなければ傷つかない。

傷つかなければ今日の仕事ができる。

港に船が入り、見知らぬ作業服の男たちが降り立った日。

空気ははっきりと変わった。

資材が運び込まれ、桟橋が補修され、倉庫が建った。

木材の匂いが増えた。

油の匂いが混じった。

釘を打つ音が朝に増え、夕方には湯気の匂いが増えた。

匂いが増えるのは、物が増える証拠だった。

物が増えると、人が戻ってくる。

港の仕事にも、紙が増えた。

搬入票。受領印。日付。担当。

紙は小さく、項目は少なく、誰でも書ける形だった。

誰でも書ける形は、誰でも替えられる形でもある。

替えられる形は、便利で、正しい。

正しいほど、誰も止めない。

止めないまま、島は「回っている」と言える。

回っていると言えることが、いちばん安全に見えた。

安全は、問いを眠らせる。

仕事が生まれた。

若者が戻ってきた。

戻ってきた若者は、初日に港で名前を呼ばれた。

「久一、荷をこっち」

「芳江、明日は手伝えるか」

呼ばれると振り向く。

振り向くという単純な動作が、島にとっては未来に見えた。

未来は大きな言葉ではなく、今日の段取りの中にある。

「うちの島も、やっと役に立つようになったな」

誰かが冗談めかして言い、それが笑いとして受け取られた。

必要とされる、という感覚。

それは誇りだった。

誇りは胸に入ると、疑問を鈍らせる。

鈍った疑問は生活の音に溶ける。

溶けたものは、最初から無かったことになる。

金鉱は、ただ金を生むだけではなかった。

商人が来て、店が増え、酒場ができた。

塩と干物しか並ばなかった棚に、砂糖が置かれる。

赤い手ぬぐいが売れる。

薬箱に、熱さましの粉が入る。

安い茶碗の縁が欠けても、次が手に入る。

「次がある」という感覚は、島の背骨を立てた。

潮が冷たくなるころ、桟橋の板は一度張り替わり、また黒ずんだ。

黒ずみが戻るほど、人の出入りが「日常」になっていった。

日常になると、人は疑わない。

疑わないまま、暮らしは前へ進む。

進むほど、戻り方を忘れる。

島の外から来た人間が、島の名を口にする。

そのこと自体が、島民にとっては新鮮だった。

呼ばれるのは地名だけではない。

人も呼ばれる。

下の名で呼ばれ、返事が返る。

返事が返る場所は、仮の場所ではない。

仮ではないと感じられることが、ここでは贅沢だった。

島は時代の流れの中に組み込まれた。

遅れていた歯車がようやく噛み合い、金は回り、生活は少しずつ楽になった。

だが島の人々が本当に喜んだのは、金そのものではなかった。

金がもたらした「選択肢」だった。

子どもを本土の学校へやる。

家を建て替える。

店を持つ。

漁を続けるか、坑道に入るかを選ぶ。

島に残り、ここで生きていく。

残ることが「仕方ない」ではなく「選ぶ」に変わる。

選ぶという言葉は幸福の形をしている。

幸福の形は、見ているうちに正しさに似てくる。

正しさに似てくると、誰も反対できなくなる。

その象徴が劇場だった。

金鉱の繁栄にあやかって建てられたその劇場には、名前があった。

金栄座。

庄屋の筆跡だった手書きの看板が、入口の上で少し傾いている。

傾きは直さない。

直さないのは筆の癖がそこに残っているからだ。

癖が残っているものは、誰かのものになる。

芝居の内容は素朴だった。

旅回りの一座が来て、よくある人情噺を演じる。

だが島の人々は内容よりも、「ここで芝居が見られる」という事実を喜んだ。

幕が上がると、子どもたちが声を上げる。

「兄さん、今日は死ぬの」

役者が笑って「今日は死なない」と返す。

返事が返る。

返事が返ることが、この場所の贅沢だった。

金栄座は、島が「仮の場所ではない」ことを示す印だった。

一時の労働地ではなく、生活の場として選ばれた証だった。

大人たちは仕事終わりに集まる理由を持った。

理由がある夜は、人を長生きさせる。

長生きする人が増えると、島は続くと思える。

その一方で、小さな痛みもあった。

坑道で怪我をした男が、港の薬屋で順番を待っていた。

外から来た監督が、帳面を見ながら言った。

「次、……ええと、こっちの人」

名前が出てこないだけで、空気が一度止まった。

誰も怒らない。

誰も責めない。

ただ、呼ばれない者が、少しだけ遅れる。

名前のある場所。

名前で呼ばれる人々。

島では人は統計ではなかった。

番号でもなかった。

呼べば振り向く存在だった。

呼び間違えれば笑いが起き、笑いが起きれば場が繋がる。

繋がる場がある限り、人は孤立しない。

後年、高島が見つけた古い写真には、そうした日常が写っていた。

作業服のまま笑う男たち。

劇場の前で肩を並べる家族。

看板の文字は少し傾いているが、確かにそこにあった。

高島はその写真を机の上に並べた。

角を揃え、順番を整える。

年代順に。

出来事が自然につながるように。

揃えることで理解が近づく気がした。

理解が近づくほど、手が止まらなくなる。

この島は、正しく発展した。

資源が見つかり、人が集まり、社会が形成される。

近代産業史の教科書通りの流れだった。

合理的で、無駄がない。

だからこそ高島はこの島に惹かれた。

これは悲劇ではない。

成功例だ。

成功例が、なぜ消える。

島の沖合には、時折、見慣れない船が停泊していたという。

測量に似た作業をしていた、という断片も残っている。

だが当時、それを問題にする者はいなかった。

島は忙しく、希望に満ちていたからだ。

必要とされている。

その感覚は疑問を鈍らせる。

合理性は人を安心させる。

安心は問いを不要にする。

高島は写真の一枚を裏返した。

そこには日付と簡単な走り書きがあった。

「祭りの日。人が多い」

それだけだった。

人が多い。

それは祝福の言葉だ。

だが祝福は、気づかぬうちに別の意味へ寄っていく。

把握できる。

段取りできる。

揉めずに済む。

――正しい。

高島は無意識に写真を揃え直した。

揃える癖は、もう安心のためだけのものではない。

意味を固定するための手つきに変わりつつあった。

島は確かに必要とされていた。

正しく。

合理的に。

だからこそ、必要が失われたとき、誰も「間違いだ」と言えない。

写真の裏のインクは滲み、紙の角は少しだけ丸い。

丸い角を、高島は指で撫でてしまう。

撫でれば、整えたくなる。

整えた瞬間、島は“資料”になり、資料は“成果”に近づく。

島の人々は、あの頃、「選ぶ」ことを覚えた。

選ぶしかない毎日が、いっときだけ、選べる毎日に見えた。

それでも彼らは、選んだのだ。

その幸福の形が、後から最も正しい刃になることを知らずに。

高島は最後に金栄座の写真を束の一番上に置いた。

そして思った。

ここが折れる。

折れ方は、きっと静かだ。

きっと、正しい手順の中で。

――皆が正しいまま、自由だけが先に減る。

夢は、守るための理由に似た顔で、先に壊し方を用意してくる。


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