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■第1章「違和感」:四話(期限)

研究室の窓から見える中庭は、昼間でも人影が少なかった。

学生数の減少は統計としては知っていた。

だが視界に現れると、数字とは別の重みを持つ。

重みは説明の外にある。

説明の外にあるものほど、後から効いてくる。

高島は机の上に並べた書類に目を落とした。

学部運営会議の議事要旨。

その中に、付け足しのように挟み込まれた一文がある。

――来年度以降、研究室の統合を検討する。

対象は外部資金の獲得実績が乏しい分野。

どの分野かは書かれていない。

だが書かれていないからこそ、自分のことだと分かった。

名指しはない。

警告もない。

ただ条件だけが提示されている。

条件は公平の顔をしている。

公平の顔をした条件は、反論の入口を塞ぐ。

高島は紙の角を揃えた。

揃えなければ文章が頭に入ってこない。

揃えれば判断が整理できる。

少なくとも、そう信じていた。

信じられる手順があるうちは、まだ崩れていないと思える。

科研費の結果は、まだ出ていない。

だが今年も通らなければ、次はない。

研究室を維持できなければ、学生を抱えることもできない。

高島は学生名簿を開いた。

修士へ進む予定の者。

就職活動を控えた者。

この研究室を前提に、進路を組み立てている学生がいる。

前提は、壊れるときほど静かだ。

「潰せないな……」

その言葉は研究のためではない。

少なくとも、そう思いたかった。

思いたい理由がある。

理由がある限り、人は正しい。

統合されれば指導体制は変わる。

テーマも引き継がれない可能性がある。

学生にとっては理由の説明もない“整理”だ。

整理は、善意の言葉に見える。

善意に見える言葉は、拒否できない。

高島は自分が島の資料を追っている理由を、頭の中で言い換えた。

記録から消えたように見える事実を、もう一度辿れる形に戻す。

国が犯した過去の罪を、学問として提示する。

正しい。

正しすぎるほど正しい。

正しい言葉は、いつの間にか別の言葉とすり替わる。

誰も扱っていない事実に辿り着ければ、それは成果になる。

成果。

その語は思った以上に重かった。

重い語ほど、生活に接続する。

成果が出れば研究室は守れる。

学生は散らない。

父の介護費も、研究費の中で何とかできるかもしれない。

「何とかなる」は便利だ。

便利な言葉ほど、期限を見えなくする。

高島はパソコンで科研費の申請ページを開いた。

応募要領。

提出書類。

提出期限。

期限は日付だけで書かれている。

日付の横に、提出欄がある。

提出欄は空白で、きれいに整っている。

整った空白は、埋めるべき欄だ。

欄である以上、埋まることが前提になっている。

高島は机の引き出しを開けた。

島の資料がまとめて入っている。

都市伝説のスクリーンショット。

表記の揺れた鉱山名。

欠落した海域調査報告書。

それらをきちんと揃えれば一本の線になる。

揃えれば見せられる形になる。

見せられれば評価される。

評価されれば、守れる。

守れるという言葉が、理由になってしまう。

「……時間がない」

期限は静かに迫っていた。

静かなものほど、気づいたときには近い。

高島は焦っている理由をもう一度整理しようとした。

研究者としての使命感。

学生を守りたい責任感。

家族を路頭に迷わせたくない生活感。

どれも正しい。

正しい理由が三つ重なるとき、そこに入る余地がある。

――欲だ。

高島はその言葉をすぐに否定しなかった。

否定しなかったこと自体に、少し驚いた。

欲は卑しいものではない。

守りたいものがある者にとって、欲は温度を持つ。

だが欲は正しさと結びついた瞬間、区別できなくなる。

区別できなくなると、選択は手順に変わる。

高島は資料を並べ直した。

紙の角を揃える。

ペンの向きを揃える。

付箋の位置を揃える。

揃えることで判断が均される。

均されることで危うさが見えなくなる。

見えなくなれば、進める。

進めることが、今日の正しさになる。

島はかつて必要とされた。

金があり、人が集まり、社会ができた。

そして使われ、切り離され、放置された。

誰も「島を捨てた」とは言わない。

「状況が変わった」と言うだけだ。

言い方が穏やかであるほど、行為は深く残る。

高島はふと気づいた。

自分がやろうとしていることは、島を扱ったのと同じ形に似ている。

正当な理由を並べる。

危険性を管理する。

扱える範囲だけを切り出す。

それは隠蔽ではない。

整理だ。

管理だ。

――そう呼べてしまう。

そう呼べる言葉がある限り、人は手を汚していない顔ができる。

手を汚していない顔のまま、誰かを外に出せる。

外に出された者は、説明の外に置かれる。

説明の外に置かれたものは、後から“無かった”にできる。

高島は島の写真を一枚取り出した。

金栄座の看板が写っている。

劇場の前で人々が並んでいる。

名前のある場所。

名前で呼ばれていた人々。

あの場所が地下へ降り、番号になり、記録されなくなったとき。

誰がそれを「間違い」だと言えただろう。

高島は写真の端を指で揃えた。

揃えれば資料になる。

資料になれば申請書に載せられる。

申請書に載れば審査が通るかもしれない。

通れば研究室は守れる。

守れる。

その言葉だけが、現実と正しさを繋いでいる気がした。

気がしたことが、いちばん危ない。

危ないのに、合理的だ。

合理的な判断は、正しい顔をしている。

正しい顔をしているものは、止めにくい。

止めにくいものほど、進むしかなくなる。

高島はもう一度、提出期限を見た。

日付は動かない。

動かないものほど、人を動かす。

高島は申請書の下書きを開いた。

空欄が並んでいる。

所属。

職位。

研究課題名。

共同研究者。

実施場所。

予算計画。

空欄は、整っている。

整っている空欄は、埋まることを疑っていない。

その夜、妻が言った。

「最近、あなた……何かを決めた顔をしてる」

高島は答えなかった。

答えれば、決めた理由を言葉にしなければならない。

言葉にすれば、正しさに寄せてしまう。

寄せた瞬間、区別ができなくなる。

妻はそれ以上、聞かなかった。

聞かないことも配慮だ。

配慮は優しい顔をして、手続きを進める。

高島は机の上の資料を揃えたまま、灯りを落とした。

暗い部屋で、紙の白だけが浮く。

白は、空白を目立たせる。

空白が目立つと、人は埋めたくなる。

埋めるしかないように感じる。

それでも埋めるのは、自分だ。

期限は、もう、始まっている。

――その先で“選ぶ”のではなく、“選ばされる”ために。


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