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■第12章「選ばなかった記録」:三話(同じ沈黙)

二度目の月曜の夜、退職の書類が受理された。

家が静かすぎて、時計の針だけが働いていた。

高島は、父の古い書類箱を開けていた。

診療記録。

紹介状の写し。

検査結果の束。

封筒の角。

ホチキスの位置。

付箋の色。

すべてが、過剰なほど几帳面に揃えられている。

父は、整理する人だった。

治せた症例よりも、治せなかった症例の記録を丁寧に残す医師だった。

責任とは、結果ではなく、向き合った時間だと信じていた人だ。

だが、ある時期を境に、記録が途切れている。

紙はある。

箱もある。

番号の連番も不自然ではない。

中身だけが、ない。

高島は、その空白を昔から知っていた。

子どもの頃から、箱の重さだけは変わらないのに、どこかが軽いと感じていた。

問い詰めたことは、一度もない。

問い詰めれば、言葉が必要になる。

言葉は、診断になる。

診断は、治療方針になる。

治療方針は、家族の生活を変えてしまう。

父は、それを選ばなかった。

選ばなかったのは、怠慢ではない。

無知でもない。

むしろ、理解しすぎていた。

記録すれば、研究になる。

研究になれば、患者は症例になる。

症例になれば、個人の生活は対象に変わる。

対象に変わった瞬間、生活は誰のものでもなくなる。

父は、その変換を拒んだ。

拒むために、沈黙した。

沈黙は優しい。

優しいから、誰も責めない。

誰も責めない沈黙は、いちばん長く残る。

高島は、箱の底に小さな鍵を見つけた。

見覚えのない鍵だ。

錆びているが、折れていない。

どこにも合わない鍵。

使われなかったのか。

使い終わったのか。

判断する材料は、ない。

高島は、鍵を掌に乗せた。

冷たい。

だが、拒絶する感触ではない。

金属の冷たさは、事実に似ている。

触れた側の温度だけが、奪われる。

この鍵は、何かを閉じるための道具ではない。

最初から、回さないための鍵だ。

回さないことで、扉は扉のままになる。

扉のままでいれば、誰も入らない。

入らなければ、誰も責任者にならない。

父は、救えなかった。

だから、記録しなかった。

救えなかったことを隠すためではない。

救えなかった後の生活を壊さないためだ。

高島は、その沈黙を子どもの頃から呼吸のように吸ってきた。

家庭は、静かだった。

医師の家庭としては、異様なほど。

だが、壊れてはいなかった。

静かであることが、正しかった。

正しい静けさの中では、泣く場所がない。

泣けない家は、長持ちする。

長持ちすることが、善だと誰もが思える。

そして今、高島は同じ場所に立っている。

論文を書かなかった。

金に触れなかった。

名前を出さなかった。

結果、何も起きなかった。

何も起きなかったことが、報酬だった。

報酬は、選択を正当化する。

正当化は、次の選択を呼ぶ。

次の選択は、最初より簡単になる。

それは偶然ではない。

意図された不作為だ。

不作為は、最も摩擦の少ない行為だ。

摩擦が少ないから、合理に見える。

合理に見えるから、正しい。

高島は、自分が父と同じ選択をしたことを否定しなかった。

誇りでも、後悔でもない。

ただ、同じ沈黙だった。

彼は、書類箱を閉じた。

蓋が閉まる音が、薄い。

薄い音は、記録にならない。

記録にならないものは、共有されない。

共有されないものは、争いを生まない。

鍵は、戻さなかった。

机の引き出しに入れた。

他の物と向きを揃える。

揃えられた鍵は、もう道具ではない。

象徴だ。

象徴は、説明を要求しない。

説明を要求しない象徴は、制度より強い。

制度は文章で動く。

象徴は沈黙で動く。

触れなければ、何も起きない。

起きなければ、誰も責任を負わない。

責任を負わなければ、日常は守られる。

高島は、その連鎖を自分のものとして受け入れた。

島の地下で生まれた教義も。

国家の運用も。

父の沈黙も。

すべては同じ一点を指している。

知られないこと。

記録されないこと。

鍵が、回らないこと。

高島は、机を整えた。

整えれば、考えが細くなる。

細くなれば、問いが折れる。

折れた問いは、痛まない。

痛まないことが、生活の条件になる。

引き出しを閉めた。

鍵の音は、しなかった。

それで、よかった。

同じ沈黙が、また一つこの世界に追加されただけだ。

そして、それは誰かの生活を今日も守っている。

次に沈黙する手が、

その鍵に触れるまで。


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