■第12章「選ばなかった記録」:二話(守られたもの)
退職届を出してから、二度目の月曜だった。
何も、起きなかった。
論文は出ていない。
発表もない。
問い合わせも来ない。
世界は、高島の沈黙を問題にしなかった。
それが、一番はっきりした変化だった。
朝、妻はいつも通りに起きた。
いつも通りに身支度をした。
いつも通りに家を出た。
特別な会話はない。
説明も求められない。
沈黙は、共有されなかった。
子どもは、元の席に戻っていた。
理由は告げられない。
告げられる必要もない。
理由がないまま戻ることの方が、正しい。
学校の掲示板から、注意喚起の紙が消えていた。
昨日まで貼ってあった場所が、白く残っている。
白は、何も言わない。
何も言わないものほど、長く正しい顔ができる。
誰も、それに触れなかった。
触れないことが、手順になっていた。
手順になったものは、誰の意思でもなくなる。
意思でないものは、責任にならない。
高島は、それらを静かに見ていた。
守られた、と思った。
同時に、その言葉の危うさも理解していた。
守られたのは、真実ではない。
守られたのは、日常だ。
日常は、理由を必要としない。
理由を必要としないものは、最も強い。
妻の歩き方は、元に戻っていた。
肩の位置が少しだけ下がっている。
職場からの連絡がないというだけで、人は軽くなる。
軽くなると、疑問も軽くなる。
疑問が軽くなると、次に重くなるのは別の誰かだ。
子どもは、帰宅して宿題を広げた。
鉛筆の音が、机を叩く。
その音は、島の地下の音とは違う。
違うのに、同じものを守っている。
守っているのは命ではない。
生活だ。
高島は、研究室に行かなくなった。
行く理由が、なくなったからだ。
理由がなくなると、行かないことが正しくなる。
退職の手続きは、淡々と進んだ。
引き止めもない。
評価もない。
感想もない。
ただ、規程通りに処理された。
処理は、摩擦を減らす。
摩擦が減れば、音も減る。
音が減れば、抗議の入口がなくなる。
入口がなくなれば、誰も怒らない。
怒らないまま終わるものほど、強い。
メールの件名は短かった。
「手続きのご案内」
本文は丁寧だった。
丁寧であるほど、返事の場所がない。
返事の場所がない文章は、正しさの箱になる。
添付ファイル。
退職届。
研究データ取り扱い確認書。
外部持ち出しの禁止。
保管期間。
廃棄方法。
整っている。
整っているものほど、選ぶしかない。
選ぶしかないから、人は選んだと思える。
選んだと思えるから、罪が見えにくくなる。
高島は、自宅の机を片づけた。
資料は、封筒のまま。
封を切る理由が、もうない。
切れば、再び接続が始まる。
彼は、角を揃えた。
封筒の角。
紙の角。
机の端と、引き出しの縁。
揃えることで、世界が「落ち着いた」ように見える。
落ち着いたように見えるだけで、人は信じる。
揃えるたびに、責任が均される。
均された責任は、誰のものでもない。
誰のものでもない責任は、誰も背負わない。
背負わないまま進むことが、この社会のやり方だった。
高島は、ふと思う。
自分は何かを守ったのか。
それとも、何かを捨てたのか。
問いは、また接続になる。
だから問いの形を作らない。
作らないために、さらに揃える。
――誰も責任者にならない世界が、守られた。
その一文が、彼の中で静かに定着した。
父の沈黙も、島の地下の教義も、ここに収束している。
知られなければ、奪われない。
奪われなければ、壊れない。
壊れなければ、日常は続く。
続くことが善であるかどうかは、問われない。
問われないことが、守られるということだ。
高島は、自分が少しだけ楽になったことを否定しなかった。
それは清廉ではない。
だが、人間の汚さだ。
誰かの生活が壊れなかった。
それだけで、胸の奥が静かになる。
静かになると、次に何を失ったかを数えなくて済む。
数えないことが、救済に似てくる。
選ばなかったことで、守られたものがある。
同時に、選ばなかったことで、永遠に戻らないものもある。
高島は、それらを天秤にかけなかった。
かければ、理由が生まれる。
理由は、接続になる。
彼は、今日も机を整えた。
何も書かないために。
何も起こさないために。
それが、彼の選んだ救済だった。
だが救済は、完了ではない。
救済は、運用だ。
運用は、次の担当者を必要とする。
担当者がいない世界は、誰かを担当者にする。
守られた日常は、静かに場所を空ける。
次に沈黙する者のために。
その沈黙が、
また誰かの生活を守るふりをするために。




