■第12章「選ばなかった記録」:一話(書かなかった論文)
退職申請の「完了」が表示された翌週の月曜だった。
机の上は整っていて、整っていることが逆に不自然だった。
封筒は引き出しの中にいる。
宛名欄の白だけが、まだ触れていない場所として残っている。
高島は、論文のファイルを開いていた。
タイトルは、未入力のままだった。
章立ては、すでに揃っている。
引用も揃っている。
図表も揃っている。
脚注の番号まで揃っている。
書けない理由は、もうなかった。
書けば、通る。
少なくとも、学術的には。
扱っている事実は一次資料に基づいている。
数値は検証されている。
仮説は反証に耐える形に整っている。
地下施設の存在。
検疫の記録。
海域制限の線引き。
搬出量と産出量の差。
汚染の存在。
金の残存。
論理の上では成立していた。
成立しているものほど、正しい顔をする。
正しい顔をしたものは、入口が多い。
入口が多いものほど、止めにくい。
「通る」
という言葉が、頭に浮かんだ。
通る、という言葉は許可に近かった。
許可が出れば、共有が始まる。
共有が始まれば、窓口が生まれる。
窓口が生まれれば、担当者が生まれる。
担当者が生まれれば、責任が生まれる。
ここから先は、彼が何度も見てきた運用だった。
否定されない。
ただ整えられていく。
倫理審査。
学部会議。
情報共有。
安全配慮。
念のため。
その語彙は、彼の舌に馴染みすぎていた。
馴染んだ語彙は、疑問を産まない。
疑問がない正しさは、止められない。
高島はカーソルの点滅を見つめた。
点滅は、呼吸に似ている。
呼吸に似ているものは、生命に見える。
生命に見えるものは、こちらの罪を薄くする。
書き出しの一文を、頭の中でなぞった。
――本稿は、近代国家の周縁において。
そこから先は、何度も書いてきた文章だ。
手は自然に動くはずだった。
だが、動かなかった。
動かないのは、恐いからではない。
恐い、より先に、理解があるからだ。
論文を書けば、記録が生まれる。
記録が生まれれば、接続が生まれる。
接続が生まれれば、管理が始まる。
管理が始まれば、正しさが動く。
その順序は、もう身体が覚えていた。
壊れるのは、島ではない。
壊れるのは、妻と子どもの明日だ。
それは仮定ではなかった。
すでに起きたことだった。
妻の職場に入った電話。
「安全配慮の共有です」
声は丁寧で、敵意がなかった。
子どもの席が端に移された日の、担任の目。
「特別扱いではありません」
言葉は正しく、謝罪は過剰に優しかった。
親族の声。
「今は時期が悪い」
誰の判断でもないはずの時期が、刃物みたいに切れた。
そして父の病室。
父は何かを言いかけて、言わなかった。
言わなかったことが、家族を守った。
高島は、その沈黙の形を覚えてしまっていた。
覚えた形は、再現できる。
再現できるものは、運用できる。
彼は画面の中の空白を見つめる。
空白は、説明を必要としない。
説明がいらないものほど、長く残る。
論文が通れば、学会で話すことになる。
質疑応答が起きる。
記者が嗅ぎつける。
自治体が動く。
省庁が照会する。
照会が入れば、窓口が作られる。
窓口が作られれば、担当者が生まれる。
担当者が生まれれば、責任が生まれる。
責任は、名札みたいに胸に貼られる。
貼られた名札は、剥がれにくい。
剥がれにくいものほど、生活を先に削る。
高島は、壊れる誰かに自分の家族を当てはめてしまう。
当てはめた瞬間、論文はもう学問ではなくなる。
学問の顔をした、接続のスイッチになる。
彼は保存ボタンの位置を確認した。
指先に、わずかな力が入る。
押せば、世界が整う。
整うという名目で、世界が動く。
動いた世界は、止まらない。
止められない世界の正しさが、積み重なる。
積み重なった正しさは、誰も責めない。
誰も責めないまま、生活だけを壊す。
高島はそこで一度だけ、自分に問いかけた。
自分は、正しい側に立ちたいのか。
それとも、壊さない側に立ちたいのか。
問いは、答えを呼ぶ。
答えは、行動を呼ぶ。
行動は、接続を呼ぶ。
だから彼は、問いを途中で切った。
切るために、机の上を整え始めた。
紙の角を揃える。
ペンの向きを揃える。
付箋の位置を揃える。
画面のウィンドウの大きさを揃える。
揃えることで、思考が細くなる。
細い思考は、余計な枝を落とす。
枝が落ちると、選択肢が減る。
選択肢が減ると、罪が静かになる。
静かな罪は、合理に見える。
高島は、ファイルを閉じた。
保存は、しなかった。
画面には何も残らない。
ただ、書けたはずだった痕跡だけが頭の中に残る。
彼はもう一度ファイルを開いた。
開いて、閉じた。
それで十分だと、身体が言った。
存在しない論文は、接続を生まない。
接続を生まないものは、誰も壊さない。
空白のままのタイトル欄を最後に見た。
タイトルがない論文は、引用されない。
引用されないものは、議論にならない。
議論にならないものは、制度を動かさない。
制度が動かなければ、家族は眠れる。
眠れる夜は、正しさよりも価値がある。
その価値判断を、彼は否定できなかった。
否定できないことが、怖かった。
怖いのに、合理的だった。
高島は、新しい文書を開いた。
論文ではない。
研究メモでもない。
タイトル欄に、何も書かない。
本文も書かない。
ただ、保存先のフォルダ名だけを変えた。
「未提出」から「未作成」へ。
作っていないものは、提出できない。
提出できないものは、問われない。
問われないものは、守られる。
守られるのは、研究ではない。
彼の生活だ。
彼の家族だ。
高島は、ゆっくり息を吐いた。
息を吐くことで、点滅が遠くなる。
そして彼は気づいた。
書かなかったことは、終わりではない。
書かなかった記録は、空白として残る。
空白は、誰のものでもない。
誰のものでもない空白は、誰かが欲しがる。
欲しがる者は、最初から欲しがるのではない。
誰かが先に「触れなかった」ことで、欲しがる形が整う。
整った形は、次の手に渡りやすい。
高島の指先が、封筒のある引き出しを思い出した。
宛名欄の白。
あの白は、まだ接続していない証拠だ。
同時に、いつでも接続できる証拠でもある。
彼は引き出しに手を伸ばさなかった。
伸ばさないことで、伸ばす未来だけが残る。
残る未来は、誰のものでもないふりをする。
ふりをするものほど、長く生きる。
長く生きるものほど、次の人間を待つ。
そしてその待ち方は、丁寧だった。
次に接続する者のために、
空白だけが、もう整えてあった。




