■第11章「汚染された金」:二話(救済の価値)
翌朝、机の上には封筒だけが残っていた。
昨夜なぞった宛名欄の白が、昼の光でさらに白く見えた。
白は、まだ接続していない証拠だった。
同時に、いつでも接続できる証拠でもあった。
高島は論文のファイルを開いていた。
タイトル欄は空白のままだった。
空白は、きれいだった。
きれいすぎるものは、触れた側が汚れる。
最初の一文を書こうとして、書けなかった。
書けないのは文章が出てこないからではない。
言葉なら、いくらでもある。
言葉にして記録にして世界に渡す。
それだけで生きてきた。
だが、ここでは違う。
言葉にした瞬間、接続が生まれる。
接続が生まれれば、管理が始まる。
管理が始まれば、正しさが動く。
正しさが動けば、生活が壊れる。
この順序は、もう身体が覚えていた。
妻の職場に入った「安全配慮」の連絡。
子どもの席が教室の端へ移されたこと。
親族から届いた遠回しな忠告。
同業者から届いた「今回は名前を外します」という短い文。
誰も怒っていない。
誰も攻撃していない。
ただ、正しいだけだ。
正しいだけで、人は壊れる。
高島はペンを持った。
握り直すと、指が少し震えた。
震えを抑えるために、机の端で紙の角を揃えた。
揃える動作は祈りに似ていた。
祈りは神に向けるものだ。
彼が向けているのは秩序だった。
秩序は答えない。
答えないからこそ、信じられる。
――救済とは、知られないことだ。
地下で生まれたその言葉が、頭の奥で鳴った。
かつては狂気だと思っていた。
極限状況の歪みだと片づけていた。
だが今は、その言葉が倫理の中心に座っている。
ここまで正しく積み重ねると、最後に残るのはそれしかない。
知られなければ、触れられない。
触れられなければ、利用されない。
利用されなければ、壊れない。
壊れなければ、家族は眠れる。
眠れる夜を守る。
それが彼の目的になっていた。
研究の目的ではない。
世界を説明する目的でもない。
ただ、朝を迎える目的だ。
子どもが学校へ行ける目的だ。
妻が職場で肩をすくめずに済む目的だ。
父の病室で無駄な謝罪を増やさない目的だ。
高島は、ふと気づく。
自分がこの言葉を島から借りている限り、弱い。
借り言葉は、いつか返される。
返されるとき、島の悲劇に寄りかかった人間に見える。
必要なのは彼自身の言葉だった。
彼自身の論理で、同じ場所に立つことだった。
父の沈黙を思い出した。
病室で父は何かを言いかけ、言わなかった。
分からなかったのではない。
分かってしまったから、言わなかった。
言えば、誰かが動く。
動けば、正しさが積み重なる。
積み重なった正しさが、誰かの生活を壊す。
父はそれを知っていた。
守りたかったのは自分の正しさではない。
家族の暮らしだ。
小さな平穏だ。
だから父は沈黙を選んだ。
沈黙は怠惰ではない。
沈黙は計算の結果だ。
高島は論文のファイルを閉じた。
閉じるだけでは足りないと、手が言った。
それでも、閉じる。
閉じることを行為にする。
行為にすると、戻れなくなる。
戻れなくなると、人は落ち着く。
落ち着くことは、罪の滑りを良くする。
彼は新しい文書を開いた。
タイトル欄に一語だけ書いた。
「救済」。
そしてその下に短い定義を書く。
――救済とは、価値を守るために、価値を使わないことだ。
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
正しい方向に進んだからではない。
戻れない方向に進んだからだ。
引き出しを開けた。
鍵をかけていない引き出しだ。
いつでも取り出せる場所。
触れられる距離。
触れられる距離は、選ぶしかない距離でもある。
彼は帳簿の写しを取り出した。
紙を揃えた。
揃えることが最後の儀式のようだった。
儀式は罪を清めない。
儀式は罪を進めやすくする。
それを知っているのに、揃える。
知っているのに、手が勝つ。
彼はそれを封筒に入れる。
宛名は書かない。
送り先も書かない。
誰にも渡さない。
渡せば、接続になる。
接続は、管理になる。
管理は、正しさになる。
正しさは、生活を壊す。
封筒の口を閉じ、テープで止めた。
角を揃えた。
揃えた角は刃物のように見えた。
刃物は、守るためにも使える。
守るために切る。
その理屈は、島で完成していた。
高島は大学の規程ページを開いた。
退職手続き。
研究データの取り扱い。
外部持ち出しの禁止。
保管期間。
廃棄方法。
整っている。
整っているものほど、選ぶしかない。
選ぶしかないから、人は選んだと思える。
選んだと思えるから、罪が見えにくくなる。
彼は申請フォームを開き、入力欄にカーソルを置いた。
名前。
所属。
連絡先。
理由。
理由欄は空白のままにした。
説明は接続になる。
接続は、また生活を壊す。
保存ボタンの上に指を置いた。
息を止めた。
止めた息が長くなるほど、心が静かになった。
静かになるほど、合理が勝つ。
合理が勝つほど、正しい顔になる。
彼は保存ボタンを押した。
画面が切り替わる。
完了、という表示が出る。
完了の文字が整いすぎていた。
整いすぎているものは、こちらの逃げ道を奪う。
完了は優しい。
優しいから、抗議できない。
抗議できないまま、確定だけが残る。
高島は机の上を整えた。
整えれば、選択肢は減る。
選択肢が減れば、罪は迷わない。
迷わない罪は、正しい顔をする。
そのとき、封筒が視界に入った。
宛名欄の白が、異様に明るい。
白は、まだ接続していない証拠だ。
同時に、いつでも接続できる証拠でもある。
高島はペンを取った。
取っただけで、胸の奥が少し温かくなる。
温かさは、自由に似ている。
自由は、幸福に似ている。
似ているだけで、同じではない。
救済は、使わないことだ。
だが救済は、使える価値でもある。
価値を使わないと決めるほど、価値が輪郭を持つ。
輪郭を持った価値は、手を呼ぶ。
ペン先を宛名欄に近づけた。
そして、そこで止めた。
止めたのに、指先は文字の形を覚えている。
自分の名前ではない文字の形を。
呼べば、外に繋がる。
繋がれば、管理が始まる。
管理が始まれば、正しさが動く。
正しさが動けば、また誰かの席がずれる。
彼は、たった一文字だけ書いた。
それは宛名ではない。
接続の合図だけが、紙に残った。
次に書くのは、
誰の名前だ。




