■第11章「汚染された金」:一話(触れられない価値)
送信ボタンを押した夜から、部屋の音は減った。
完了の表示が優しすぎて、こちらの息だけが残った。
夜の部屋は、昼よりも輪郭が少ない。
蛍光灯の唸りと、冷却ファンの低い息だけが、境界を保っている。
高島は机に向かっていた。
研究室ではない。
大学でもない。
検索しても出てこない自分の名前を、もう探す気にはなれなかった。
いま彼が見ているのは、名前ではない。
数字だった。
古い帳簿の写しがある。
港湾記録の断片がある。
海域調査の欠落がある。
鉱山設備の台帳の頁がある。
「廃棄」「移送」「検疫」。
言葉が削られた余白に、数字だけが置き去りになっている。
数字は嘘をつかない、という言い方を彼は嫌っていた。
数字は嘘をつかないのではない。
嘘をつかせるのが簡単なのだ。
丸めればいい。
欠かせばいい。
揺らせばいい。
整っているふりを続ければいい。
誰かが疲れて目を逸らすまで、丁寧に、優しく、整え続ければいい。
それでも最後に残るのは、数字だった。
残るというより、残してしまう。
残ったものから、人間は意味を作ってしまう。
意味ができれば、理由ができる。
理由ができれば、接続が生まれる。
高島は紙に式を書いた。
何度も書いた式だ。
途中で止めた式だ。
閉じたはずの式だ。
式の途中に「もし」はない。
仮定は、すでに現実に寄っている。
島の地下には金がある。
取り尽くされていない。
持ち出されてもいない。
残っている。
途方もない量が。
彼はペンを置き、指先で紙の角を揃えた。
揃えた角が、刃物のように鋭く見えた。
触れれば切れる、と目が先に知る。
知っていても、触れたくなる。
触れたくなる衝動の方が、先に正しさの顔をする。
高島は相場の画面を開いた。
現在の価格は、島が輝いていた頃とは比べものにならない。
金は金だ。
名前を持たない。
倫理を持たない。
ただ重く、ただ等しく、ただ価値がある。
価値があるからこそ、救えるものがある。
研究室を救える。
学生を救える。
父の介護を救える。
子どもの進学を救える。
妻の不安も、来年の生活も。
救える、という言葉が、この部屋でいちばん危険だった。
救える、と言った瞬間、もう一つの声が立ち上がる。
救えるのなら、取れる。
誰かが拾わなければ、ただ腐る。
汚染されているのなら、管理して隔離すればいい。
「安全のため」と同じ語彙で、正しい枠に収めればいい。
その論理が自分のものではないことを、彼は知っていた。
どこかで聞いた。
どこかで読んだ。
どこかで使われてきた。
だから強い。
強いものは、人の顔をして入ってくる。
そして入ってきたあと、こちらの手を借りる。
彼は口の中で小さく言い換えた。
「盗む」ではない。
「回収」だ。
回収。
その語を選んだ瞬間、罪が薄くなる。
薄くなった罪は、実行に近づく。
近づいた実行は、なおさら丁寧になる。
視線が机の引き出しに落ちる。
封筒がそこにある。
帳簿の写し。
地図の欠落。
数値の穴。
検疫と隔離の断片。
あれに、名前を書けばいい。
宛名を書けばいい。
送り先を書けばいい。
たったそれだけで、世界が動き出す。
指先が文字を欲しがった。
高島は宛名を書く練習みたいに、宛名欄の空白をなぞった。
紙は冷たく、白い。
白は、まだ接続していない証拠だ。
同時に、いつでも接続できる証拠でもある。
「奪う」ではない。
「保全」だ。
保全。
言い換えるほど、手が伸びる。
伸びる手の方が、先に合理を連れてくる。
合理は、いつも正しい顔で来る。
伸びる手を止めるために、彼は机の端で自分の指を押さえた。
押さえながら、紙の角を揃え直した。
揃える。
揃えれば、衝動は理屈に変わる。
理屈に変われば、正しさに似る。
正しさに似たものは、止めにくい。
止めにくいから、誰も止めない。
高島は資料を一つずつ開き、閉じた。
開くたびに、同じ結論に戻る。
金はある。
価値はある。
だが、誰も手を出していない。
「なぜ」
答えは驚くほど単純だった。
汚染。
それだけだ。
汚染と書かれた紙切れは、劇的ではない。
血も叫びもない。
ただ距離を取るための言葉だ。
汚染。
それは、触れれば壊れるという意味だ。
壊れるのは金ではない。
金は、金のまま残る。
壊れるのは、触れた側だ。
ここが、最も冷たい。
汚染は毒ではない。
汚染は責任者を作る装置だ。
触れれば、責任者になる。
責任者になれば、説明が必要になる。
説明が始まれば、共有が始まる。
共有が始まれば、関係者が増える。
関係者が増えれば、手続きが増える。
手続きが増えれば、生活が先に削れる。
妻の職場に入った「安全配慮」の連絡。
子どもの席が教室の端へ移されたこと。
親族からの「今は時期が悪い」という声。
研究支援課の「念のため」の会議。
倫理審査の「継続」。
どれも否定ではなかった。
どれも丁寧だった。
丁寧であるほど、抗議は難しい。
抗議が難しいものほど、長く残る。
長く残るものほど、正しいふりができる。
正しいふりができるものほど、誰も悪くならない。
だから誰も触れない。
欲しがらなかったのではない。
欲しがれなかったのだ。
触れないで済む形に、世界が整っている。
掘るな、と書かれていない。
触るな、と書かれていない。
ただ、触れないで済む状態が残っている。
触れなければ事故は起きない。
事故が起きなければ責任者はいらない。
責任者がいなければ誰も悪くならない。
封印ではない。
放置だ。
放置は残酷で、合理的で、正しい。
誰も悪くならないから、止められない。
止められないから、続く。
続くから、価値だけが残る。
残るから、いつか誰かの手が伸びる。
高島は画面を見つめた。
もし、汚染を中和できるなら。
その仮説は、一度だけ成立しかけた。
成功と呼ぶには小さすぎた結果。
だが、ここでは巨大な意味を持つ。
巨大な意味は、巨大な責任になる。
責任は、生活を壊す。
生活が壊れれば、守るためにまた正しさを積む。
正しさが積もれば、もっと壊れる。
この金は、救える価値だ。
同時に、壊す価値でもある。
触れた瞬間、救うために壊す。
壊さず救うことはできない。
そして壊すことは、合理的だ。
合理的な壊し方には、正しさが付く。
正しさは、人を責めない。
だから、余計に壊れる。
高島は小さく呟いた。
「……触れられない」
触れられない価値。
それは価値がないのではない。
価値が、ありすぎるのだ。
彼は引き出しを開けた。
封筒を取り出した。
角が揃っている。
揃っているものは、書きやすい。
書きやすいというだけで、手は進む。
ペン先が宛名欄の上で止まった。
止まっているのに、もう接続は始まっている。
止めているのは理性ではない。
家族の生活だ。
家族の生活を守るという理由は、最も正しい。
正しい理由は、もっと正しい言葉を呼ぶ。
言葉が増えると、行為が軽くなる。
海域の情報公開請求。研究倫理委員会への申立て。記者への連絡。学会での告発。
どれも自由で、どれも幸福に見える。
だが自由は、接続の別名だった。
接続は、管理の入口だった。
入口が開けば、最初に議題になるのは研究ではない。
妻の職場と、子どもの席と、父の病室だった。
ペンのキャップを外すと、乾いた匂いがした。
インクは、紙に触れる前から線を欲しがる。
線は記録になる。
記録は共有になる。
共有は関係者を増やす。
関係者が増えるほど、責任は薄まる。
薄まる責任は、実行を楽にする。
楽にする仕組みほど、正しい顔をする。
封筒の口には、以前貼ったテープの端が残っていた。
剥がせば、粘着が指に移る。
指に移った粘着は、しばらく落ちない。
落ちないものは、触った証拠になる。
証拠は、議題になる。
議題は、正しさを呼ぶ。
正しさは、誰も悪くしないまま、誰かだけを消す。
だからこそ、国は触れなかった。
触れないことが、最も正しかったからだ。
そして今、
その正しさを破れるのは、
名前を失った者だけだった。




