■第10章「消失」:三話(自分で消える)
大学に行く理由が、昨日の時点で消えていた。
出勤の時間になっても、高島は靴を履かなかった。
高島は、自宅の机に向かっていた。
研究室ではない。
大学でもない。
ここには、もう誰も来ない。
訪ねてくる理由が、誰にも残っていない。
机の上には、論文の下書きがある。
章立ては整っている。
引用も、図表も、注記も揃っている。
書ける。
今なら、書けてしまう。
高島はペンを取らなかった。
取れば、線が生まれる。
線が生まれれば、接続が生まれる。
接続が生まれれば、管理が始まる。
管理が始まれば、正しさが動く。
正しさが動けば、誰かが壊れる。
それは仮定ではなかった。
すでに起きていることだった。
妻の職場に入った「安全配慮」の連絡。
子どもの席が教室の端へ移されたこと。
親族からの「今は時期が悪い」という声。
研究支援課の「念のため」の会議。
倫理審査の「継続」。
どれも否定ではなかった。
どれも丁寧だった。
丁寧であるほど、抗議は難しい。
「否定されない」ことは、守られているように見える。
守られているように見えるから、従ってしまう。
従うと、やがて自分が消える。
消えても、誰も悪くならない。
悪くならない仕組みほど、長く残る。
高島は、紙の角を揃えた。
揃えることで、消える手順を先に覚えてしまう。
揃えてから、ペンの向きを揃えた。
揃えてから、付箋の位置を揃えた。
揃えるたびに、世界が静かになる。
静かになるほど、余計な選択肢が消える。
この癖は、かつては思考を守るためのものだった。
今は違う。
守るのは、思考ではない。
家族の生活だ。
画面を開く。
学内ポータル。
接続中。
図書館データベース。
接続中。
研究者情報のページ。
準備中。
問い合わせフォーム。
ログイン要求。
ログイン後、接続中。
繋がらないのではない。
繋がる必要がない形に整えられている。
その整え方が、あまりに正しい。
高島は、島の資料を引き出しから取り出した。
断片。
欠落。
揃いすぎた途切れ方。
「廃棄」
「移送」
「検疫」
止まった記録。
止めた理由の欠落。
隠したのではない。
処理したのだ。
その文が、頭の中で自然に成立する。
成立してしまうことが、怖い。
怖いのに、気持ちは静かだった。
静かな恐怖は、最も深い。
これは研究ではない。
だが研究者の頭は、理解できる形にしてしまう。
理解できる形は、扱える。
扱えるものは、運用できる。
運用できるものは、正しさになる。
正しさは、止めるためだけに使われるものではない。
通すためにも使われる。
高島は論文ファイルを開いた。
序論。
方法。
結果。
考察。
どこにも破綻はない。
言葉は丁寧だ。
論理は穏やかだ。
批判を受けにくい。
だから危険だ。
彼はカーソルを「保存」に合わせた。
指が止まった。
保存すれば、存在が確定する。
確定すれば、接続が生まれる。
接続が生まれれば、誰かの生活が議題になる。
議題になれば、正しさが積み重なる。
積み重なった正しさは、人を選別する。
壊れるのは島ではない。
妻と子どもの明日だ。
その一文が、彼の中で形を持った。
形を持った瞬間に、選択肢が一つに寄る。
寄った選択肢は、最適解の顔をする。
高島は、論文ファイルを閉じた。
保存はしなかった。
未保存のものは、共有されない。
共有されないものは、議題にならない。
議題にならないものは、誰も守らない。
守られないものは、誰も壊さない。
彼は新しい文書を開いた。
タイトル欄に一語だけ打った。
「救済」
その下に、短い定義を書く。
――救済とは、価値を守るために、価値を使わないことだ。
書いた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなった。
正しいからではない。
戻れないと決めたからだ。
決めると、手順が見える。
手順が見えると、人は落ち着く。
落ち着くことは、時に罪の滑りを良くする。
封筒を取り出した。
帳簿の写し。
地図の欠落。
数値の空白。
検疫と隔離の断片。
すべてを一つに入れる。
宛名は書かない。
送り先も書かない。
渡せば接続になる。
接続は管理になる。
管理は正しさになる。
正しさは、次の正しさを呼ぶ。
彼は封筒の口を閉じた。
テープで止めた。
角を丁寧に揃えた。
揃える行為が、封印の形になる。
パソコンで規程ページを開く。
退職手続き。
研究データの取り扱い。
外部持ち出しの禁止。
保管期間。
廃棄方法。
すべてが整っている。
整っているものほど、選ぶしかない。
選ぶしかないから、人は選んだと思える。
選んだと思えるから、罪が見えにくくなる。
申請フォームを開いた。
名前。
所属。
連絡先。
理由。
理由欄が空白で残っている。
理由を書くと、接続が生まれる。
接続が生まれれば、誰かが説明をする。
説明が始まれば、関係者が増える。
関係者が増えれば、決定は遠のく。
遠のけば、念のためが強くなる。
念のためが強くなれば、家族が先に傷つく。
高島は理由欄を空白にした。
空白は、最も丁寧な沈黙だった。
添付欄に視線を落とした。
研究データを添付できます。
提出資料を添付できます。
補足説明を添付できます。
できます、は優しい。
優しいから、拒否しにくい。
拒否しにくいと、出してしまう。
出してしまえば、接続が生まれる。
高島は添付をしなかった。
しないことで、接続を断った。
断ったことで、守る形を作った。
次に、共有の停止をした。
共同研究フォルダ。
閲覧権限。
リンク。
公開範囲。
「期限切れ」
「更新なし」
「リンク無効」
壊したのではない。
整えたのだ。
閲覧履歴を消した。
ダウンロード履歴を消した。
検索履歴を消した。
ログは、罪ではない。
だがログは接続の証拠になる。
証拠は議題になる。
議題は正しさを呼ぶ。
正しさは、最も穏やかな暴力だ。
スマートフォンを手に取った。
妻の連絡先を見る。
子どもの担任を見る。
学部長補佐の番号を見る。
研究支援課のメールを見る。
誰にもかけない。
かければ、何かが動く。
動けば、正しさが積み重なる。
積み重なれば、誰かの席がまたずれる。
またずれた席は、元に戻らない。
守るために、動かさない。
動かさないために、消える。
スマートフォンを伏せた。
机の端に揃えた。
ペンも揃っている。
紙も揃っている。
封筒も揃っている。
揃えられるものは、もうそれだけだった。
高島は、保存ボタンではなく、送信ボタンに指を置いた。
送信は、決定だ。
決定は、責任だ。
責任は、ここでは最も重い。
息を止めた。
止めた息が長くなるほど、心が静かになる。
静かになれば、合理が勝つ。
合理が勝てば、罪が透明になる。
高島は送信を押した。
画面に表示が出る。
「申請を受け付けました」
「担当部署より連絡します」
連絡は来ないかもしれない。
来なくても、困らない形になっている。
困らない形は、正しい。
正しさは、彼を救わない。
だが彼の家族は、救われるかもしれない。
救われるかもしれない、が最も強い。
その瞬間、高島は理解した。
自分が消えることは逃げではない。
選択だ。
島が選んだ沈黙と同じ線の上に、自分は立っている。
それが罪だと分かっていても。
それでも、これしかなかった。
封筒を引き出しの奥に押し込んだ。
鍵はかけなかった。
触れられる距離に置く。
触れられる距離は、誘惑の距離でもある。
そして彼は、もう一度だけ計算を思い出した。
差分。
未採掘。
未搬出。
価値。
汚染を前提にした減価。
消えることで守ったはずの生活のために、次に触れたくなるのは――汚れた価値だった。
次は、封筒ではない。
島そのものだ。




