■第10章「消失」:一話(記録にない名前)
最初に気づいたのは、違和感というほど大げさなものではなかった。
朝のコーヒーが少し薄い、と同じ種類の気づきだった。
面談の翌朝、いつものように講義資料を更新しようとして、高島は学内システムにログインした。
パスワードは合っている。
認証も通る。
二段階認証の番号も、正しく押した。
ここまでは、いつも通りだった。
担当科目の一覧が表示される。
科目名がある。
教室がある。
時間割もある。
受講者数もある。
ただ、担当者欄に自分の名前がない。
空白だった。
空白の下に、小さく「未定」と書かれていた。
高島は画面を見つめた。
一度、目を閉じた。
瞬きを挟めば、表示は戻る。
そう思った。
戻らなかった。
講義そのものは存在している。
だが、担当者が存在しない。
担当者が存在しない講義は、誰の責任でもない。
責任がないものは、止まらない。
止まらないことは、正しさに似ている。
高島は椅子に深く座り直し、机の上の紙を揃えた。
紙の角を揃えると、まだ自分がここにいると確認できる。
確認できる限り、慌てなくていい。
慌てないことは、適切に見える。
適切に見えることは、安全だ。
落ち着いた視界で、もう一度画面を見る。
変わらない。
担当者は未定のままだ。
事務に問い合わせようとして、メール画面を開く。
宛先欄にカーソルを置き、いつも通り「教務」と打つ。
候補が出ない。
部署名が出るはずの位置が、空白になっている。
空白のまま、候補の窓が閉じた。
次に、個人名で探そうとする。
教務担当の職員の姓を打つ。
候補が出ない。
別の部署の似た名前だけが、整然と並ぶ。
整然としているほど、そこから漏れているものが目立つ。
職員名簿の検索ページへ移動する。
名前を入力する。
検索。
該当者なし。
高島は息を吐いた。
声は出なかった。
不安より先に、納得が来た。
こういうことも起きる。
起きてもおかしくない。
そう思える自分に気づいてしまった。
研究棟に入れなかった日から、彼は「起きてもおかしくない」を増やしてきた。
増やすことで、耐えられる。
耐えられることは、続けられることに似ている。
似ているだけで、同じではない。
高島は学内ポータルのプロフィールを開いた。
氏名欄はある。
役職欄もある。
だが、研究者ページへのリンクが灰色になっている。
「準備中」と出た。
準備中という言葉は、拒否ではない。
拒否ではないから、怒れない。
怒れないことは、正しい。
学内検索で自分の名前を打つ。
研究室名を打つ。
過去の講義資料を打つ。
ヒットしない。
ヒットしないのに、エラーも出ない。
「存在しない」と、丁寧に扱われている。
丁寧に扱われると、こちらも丁寧に黙りたくなる。
高島は机の上のペンを揃えた。
一本ずつ、同じ向きにする。
揃えると、世界が少しだけ静かになる。
静かになると、考えなくて済む。
考えなくて済むのは、楽だ。
楽だと思ってしまうことが、怖い。
研究室の鍵は、まだ使えた。
扉は開く。
入室ログも通っている。
完全に消えたわけではない。
消えかけている。
その曖昧さが、妙に心地よかった。
誰かに説明する必要がない。
理由を考えなくていい。
理由を考えなければ、反論もしなくていい。
反論しなければ、適切な側にいられる。
いられる限り、排除されない。
彼はその計算を、もう手でできる。
机の上の資料を整える。
島の資料だ。
都市伝説のスクリーンショット。
統計年報の写し。
海域調査の欠落。
「検疫」
「隔離」
「臨時施設」
断片的な単語。
彼は、それらを時系列に並べ直した。
角を揃える。
順番を揃える。
揃えれば、因果が見える気がする。
因果が見えれば、説明ができる気がする。
説明ができることは、安心につながる。
島で増えたのは、説明だった。
説明が増えるほど、反論は減った。
理由がある制限は、制限ではなく配慮と呼ばれた。
配慮は拒否しにくい。
拒否しにくいものほど、長く残る。
高島の周囲でも、同じことが起きている。
否定はない。
配慮だけがある。
配慮がある限り、自分は守られていると思える。
守られていると思える限り、自分で動かなくなる。
夕方、共同研究者から短いメッセージが届いた。
「今回は、名前を外して進めます」
理由は書かれていない。
だが、理由は分かる。
名前があると、議論が止まる。
議論が止まると、研究が止まる。
研究を止めないために、名前を消す。
島で起きたことと同じ構造だった。
番号が先に来る。
名前は補足になる。
補足は、削りやすい。
高島は返信しなかった。
返信しなければ、合意になる。
合意は、最も静かな同意だ。
彼は、もう一つだけ行動した。
共有フォルダに置かれていた草稿ファイルを開き、ファイル名を変えた。
「Takashima_」の接頭辞を消した。
「draft_v3」とだけ残した。
研究を残すために、自分の名を外す。
それは合理的だ。
合理的であるほど、正しい。
正しいから、手が震えない。
震えないから、怖さが遅れてくる。
遅れてくる怖さは、言葉になりにくい。
言葉にならないものは、議題にならない。
議題にならないものは、存在しない。
夜、自宅で書類を整理していると、古い健康保険証が出てきた。
期限は切れている。
更新案内は届いていない。
封筒の底で、紙だけがきれいに残っていた。
高島はそれを捨てずに、机の端に揃えた。
揃えると、まだ「自分」という形が残っている気がした。
気がしただけだった。
確認は不要だった。
存在しないほうが、楽だった。
楽であることが、最も危険だと知っているのに。
島の地下で、名前が削られた理由が分かる気がした。
名前があると、呼ばれる。
呼ばれると、外に繋がる。
外は危険だ。
調べられ、分類され、連れていかれる。
だから、名前を捨てる。
捨てることで、守られる。
知られないことが、救済になる。
高島は、自分の名前が記録から薄れていく感覚を拒まなかった。
拒まないことが最適解だと知っていたからだ。
知ってしまっていたからだ。
机の上を、もう一度整える。
すべてが等間隔に並ぶ。
隙間がなくなると、考える余地もなくなる。
その状態が、今の彼にはちょうどよかった。
消えたことが、少しだけ楽だった。
楽だと思えた自分が、いちばん怖かった。
その夜、高島は画面を印刷した。
紙の上なら、消えないと思った。
プリンタは静かに動き、白い紙を吐き出した。
そこにも「未定」があった。
担当者欄の空白は、インクの黒で固定されていた。
固定された空白は、手続きに見えた。
彼は印刷物の角を揃え、ファイルに挟んだ。
挟めば、資料になる。
資料になれば、いつか説明できる。
説明できることが、救いに見える。
救いに見えるものほど、後で縛る。
翌朝。
学内システムの通知欄に、新しい項目が一つ増えていた。
件名は短い。
「アカウント情報の更新について」
高島は、指先の温度を確かめるようにマウスを握った。
更新は拒否ではない。
拒否ではないものほど、従ってしまう。
そして、高島の画面には、ログイン済みのはずの自分が――
「接続中」のまま、いつまでも入れなかった。




