■第9章「正当な妨害」:三話(正当な妨害)
叔父から電話があったのは、夜遅くでも早朝でもなかった。
あらかじめ用意された時間だった。
互いに余裕があるはずの時刻だった。
高島はその時刻を見て、先に謝ってしまう自分を想像した。
想像できた時点で、もう負けている。
「元気か」
声は穏やかで、昔と変わらない。
高島は一瞬だけ安心しかける。
安心できる場ではない、とすぐに気づく。
安心を自覚した瞬間に、安心は弱点になる。
叔父は雑談から入らなかった。
雑談を省くのは、誠実さの形をしている。
誠実さは拒みにくい。
拒むと、自分が不誠実に見える。
「大学のほうから、少し話を聞いてね」
叔父は説明を急がない。
急がないことが、正しさの証明になる。
「大したことじゃない」
「ただ、今は時期が悪い」
時期。
それは誰の判断でもない。
判断の主体がない言葉ほど強い。
強いのに、責任を残さない。
「君の研究が間違っている、そう言ってるわけじゃない」
叔父はそこを丁寧に置いた。
丁寧に置かれた否定ではない言葉は、反論の入口を塞ぐ。
「ただ、今は誤解されやすい」
誤解。
誤解という言葉は便利だ。
誤解を解く責任を、最初から放棄できる。
解く努力を求められるのは、誤解された側だけになる。
高島は黙って聞いた。
黙ることは、理解の形になる。
理解の形になった沈黙は、もう撤回できない。
撤回できないことが、電話の目的だった。
「君は頭がいい」
「分かってるだろう」
分かっている、と言われると反論しづらい。
反論は“分かっていない側”の行為に見えるからだ。
分かっていない側に落ちるのは、危険だ。
危険は、配慮の対象になる。
配慮される側は、黙らされる。
「子どものこともあるしね」
叔父は言葉を柔らかくした。
柔らかい言葉ほど、切り分けが上手い。
「家庭を守るのも、研究者の責任だ」
責任。
その語が出た瞬間、高島の中で何かが静かに揃った。
研究。
家庭。
社会。
大切にしてきたものが、同じ机の上に並べられる。
並べられた瞬間、比較が始まる。
比較が始まると、答えは一つに寄る。
寄せられた答えは、いつも合理だ。
叔父は続けた。
「君を守りたいから言うんだ」
守りたい、は善意だ。
善意は疑いにくい。
疑えば自分が悪者になる。
悪者になった瞬間、大学は守らない。
「仕組みのほうが、正しいこともある」
叔父は少し笑った。
その笑いは悪意ではない。
善意だった。
善意の匂いは、世間の空気とよく似ていた。
似ているから、息ができる。
息ができるから、抵抗しなくなる。
高島は言った。
「分かってるよ」
言った瞬間、喉の奥が乾いた。
分かっている、は同意の形をしている。
同意の形は、後で破れない。
電話を切ったあと、高島はしばらく動けなかった。
机の上には再提出用の書類が並んでいる。
彼は一枚ずつ角を揃えた。
揃える行為は考えを止める。
考えなければ、選ばなくて済む。
選ばなければ、責任を引き受けなくて済む。
その姿勢が安全だと、彼は知っていた。
島の人々も知っていた。
紙の端に、クリップの跡が残っている。
跡は小さい。
小さいから目立たない。
目立たないものほど、長く残る。
翌日、大学から正式な通知が届いた。
封筒は厚くない。
厚くないのに、重かった。
重いのは紙ではない。
紙が運ぶ“正しさ”だ。
件名は短い。
「研究環境の再調整について」
本文は丁寧だった。
丁寧であるほど、拒否しにくい。
・研究環境の再調整
・家族への配慮
・外部影響の最小化
・関係部署との情報共有
どれも、もっともだった。
どれも、彼を守る言葉だった。
守る言葉が並ぶほど、守られる範囲は狭まる。
研究室の使用時間が制限された。
カードの権限が段階的に縮小された。
データへのアクセスは、申請制に切り替わった。
申請フォームは一枚ではなかった。
ページ番号が右下に小さく印字されている。
「1/3」だった。
次のページは「2/3」だった。
最後のページだけ、署名欄が二つあった。
申請書の欄は増えていた。
増えた欄は、どれも妥当だった。
妥当だから消せない。
理由も妥当だった。
「安全配慮」
「リスク管理」
「社会的責任」
「念のため」
否定はされていない。
だから抗議もできない。
抗議は“危険を軽視する人間”に見える。
危険を軽視する人間は、守る対象から外れる。
外れた瞬間、彼は“適切な側”にいられない。
高島は通知を読み終え、机の上に置いた。
紙の角が少しだけずれている。
彼は角を揃えた。
揃えた瞬間、通知は“手続き”になった。
手続きになれば、感情は入り込めない。
入り込めないから、楽になる。
楽になることが、怖かった。
研究は止められていない。
だが、進める理由が削られていく。
削られるのは研究内容ではない。
研究が社会に触れる速度だ。
彼の端末に、新しいメールが届く。
件名だけが光る。
「関係部署と情報共有しました。」
本文は短い。
共有先は書かれていない。
書かれていないのに、想像できる。
想像できることが、共有の成功だ。
速度が落ちれば、成果は遅れる。
遅れれば、期限に負ける。
期限は誰の味方もしない。
味方がいないから、正しい。
高島は、これを妨害とは呼ばなかった。
妨害という言葉は悪意を前提にする。
ここには悪意がない。
あるのは、正しさだけだ。
正しさは個人を救わない。
正しさは全体を守る。
全体の中に個人は含まれていない。
含まれているように見えるだけだ。
島でも同じだった。
番号が増えただけだった。
導線が整えられただけだった。
安全のためだった。
だから誰も反対しなかった。
反対しないことが、救いに見えた。
救いに見えるから、後で殴れない。
夜の研究室で高島は一人、机を整えた。
ペンの向きを揃える。
書類の角を揃える。
モニターの位置を揃える。
椅子の脚を床の線に合わせる。
合わせることで、自分がまだ“間違っていない側”にいると確認する。
確認は、彼を少しずつ削っていく。
削られているのに、血は出ない。
血が出ないから、暴力ではない。
暴力ではないから、説明できない。
説明できないから、孤立は静かに成立する。
机の端に、名札が一枚置かれていた。
以前の学部行事で配られたものだ。
透明なケースの中で、紙が少し反っている。
「高島 准教授」
肩書きの下に、担当科目が印字されている。
その印字が、薄い。
薄いのはインクではない。
扱いだ。
彼はその名札を裏返した。
裏は白い。
白い面は、何も言わない。
何も言わないものは、責められない。
責められないものが、最後に残る。
正当な妨害は、暴力ではない。
説得でもない。
理解させることだ。
理解した者は、自ら動かなくなる。
動かなくなった者は、誰にも止められていない。
止められていないから、誰も責任を負わない。
高島はそれを理解していた。
理解してしまった。
そして彼は、気づく。
自分の研究が“共有”された先で、
自分の名前が“配慮”として扱われ始めていることに。
研究者の名前は、研究より先に整理される。
整理された名前は、二度と戻らない。




