■第1章「違和感」:三話(消された名前)
数日、同じ確認を繰り返したあと。
高島は次年度の講義準備のため、学内システムにログインした。
講義概要の更新と、履修者数の見込み確認。
毎年同じ時期に行う惰性に近い作業だ。
作業に意味はあっても、判断に迷う余地はない。
だからこそ高島は、その作業を好んでいた。
迷わなくて済む手順は、人を落ち着かせる。
画面を開き、講義一覧をスクロールする。
指が止まる。
自分の名前が、ない。
正確には講義自体は存在している。
講義名も、概要も、開講時期も、これまで通りだ。
ただ担当者欄だけが空白になっている。
空白の幅が、きれいに揃っていた。
揃っている空白は、書き忘れではなく欄に見える。
高島はゆっくりと画面を上に戻し、もう一度下へスクロールした。
見落としではない。
何度見ても空白は空白のままだ。
再読み込み。
変わらない。
ブラウザを閉じ、開き直す。
変わらない。
変わらないことは安心のはずなのに、今日は逆だった。
整って固定された異常は、修正より運用に近い。
念のため、過去年度のデータを開く。
去年も一昨年も、同じ講義名の横に自分の名前が並んでいる。
表示は残っている。
ただ今年度の“今”だけが切れている。
切れているのは事実ではなく、参照の道だ。
「事務のミスか」
声に出してみると、言葉が妙に軽く聞こえた。
大学のシステムは複雑だ。
反映がずれることも、表示が遅れることも、珍しくない。
珍しくない、という言葉は便利だ。
便利な言葉ほど、判断を遅らせる。
高島は事務課宛にメールを打った。
件名は簡潔に「講義担当者表示について」。
本文は丁寧に、事実だけを書く。
余計な感情を入れない。
問いは短く、判断は委ねる。
送信。
送信履歴を確認する。
――残っている。
残っていることに、なぜか安心した。
記録が残るなら、まだ接続がある。
そう考えること自体が、すでに片足を入れていると分かりながら。
数時間待っても返信は来なかった。
午後になっても、夕方になっても、何もない。
「忙しいのだろう」と高島は整理した。
整理できる範囲に置けば、生活は回る。
生活を回すための整理は、ほとんど正義に見える。
夜、自宅で再び学内システムを開く。
講義一覧から、その講義自体が消えていた。
まるで最初から登録されていなかったかのように。
高島は椅子に座ったまま、動けなくなった。
キャンセルの連絡は受けていない。
決裁が必要な変更だ。
本人に知らせずに行う理由はない。
理由はないはずだった。
理由がないはずのことほど、人は声を上げたくなる。
だが声を上げるには相手が必要だ。
相手を想定した瞬間、こちらが「手続きを求める側」になる。
求める側は、すでに運用の中にいる。
翌日。
研究棟の廊下で同僚とすれ違った。
准教授は軽く会釈したが、立ち止まらなかった。
以前なら一言二言、互いの予定を交わしていた相手だ。
研究室の前を通る学生も、視線を合わせない。
気のせいだ、と高島は自分に言い聞かせた。
人は不安になると、世界が変わったように感じる。
変わったように感じる、で済ませられるうちはまだ大丈夫だ。
研究室の鍵を回す。
昨日と同じ音がする。
同じ音がすることが、いちばん怖いときがある。
机に鞄を置く。
紙の端を揃える。
ペンの向きを揃える。
揃えることで、世界の角を立てないで済む。
角を立てなければ、生活は回る。
回っているあいだは、消えていないと思える。
昼過ぎ、再びシステムを開いた。
一覧には同じ科目が並ぶ。
自分の講義だけが、ない。
検索欄に講義名を打つ。
候補は出る。
クリックすると、白い画面になる。
読み込み中の円が回る。
回って、止まる。
「ページが見つかりません」
丁寧な文で、扉だけが閉じられた。
扉が閉じられると、人はノックしたくなる。
ノックするには、相手がいる前提が必要になる。
前提を与えた瞬間、こちらの居場所が決まる。
居場所が決まるのは、相手の都合でだ。
その夜、スマートフォンが震えた。
妻からのメッセージだった。
「学校から連絡があったみたい。『安全確認』って言ってたけど、何のこと?」
安全。
確認。
どちらも責める言葉ではない。
むしろ配慮の言葉だ。
配慮は拒否しにくい。
拒否しにくいものほど、長く残る。
高島は画面を見つめたまま、しばらく返信できなかった。
「何もない」と書けば嘘になる。
「何かある」と書けば接続が確定する。
確定すれば、説明を求められる。
説明を求められれば、相手は“正しく動く”。
正しく動けば、手順が始まる。
手順が始まれば、こちらは手順の中の一行になる。
選ぶしかない。
だが、どれを選んでも自分で選んだことになる。
高島は「大丈夫だと思う」とだけ返した。
根拠はない。
根拠がないからこそ、言葉は短くなった。
翌朝。
研究室へ向かう途中、掲示板が目に入った。
学部運営会議の議事要旨。
紙は角が揃い、朱印が押されている。
揃っているものは処理されたものだ。
処理されたものは戻らない。
そこに、さりげなく挟み込まれた一文があった。
――来年度以降、研究室の統合を検討する。
対象は外部資金の獲得実績が乏しい分野。
分野名は書かれていない。
だが書かれていないからこそ、自分のことだと分かった。
名指しされない決定。
説明されない判断。
それは拒否されるよりも、深く静かに効く。
正しさは、名指しを必要としない。
午後、事務課へもう一度メールを送ろうとして、彼は気づいた。
宛先欄に「jim」と打っても候補が出ない。
事務課のアドレスが、候補一覧に表示されない。
アドレス帳を開く。
事務課の連絡先が、ごっそり消えていた。
消えているのは連絡先ではない。
連絡する道が、先に切れている。
切られた道は、理由を残さない。
理由がないと、人は自分で理由を作る。
作った理由が合理的だと、納得してしまう。
納得は、運用にいちばん都合がいい。
高島の脳裏に、あの島の資料がよぎる。
途中から消えた名前。
書き換えられた表記。
完全には消さず、痕跡だけを薄く残す。
削除ではなく分散。
否定ではなく参照不能。
あまりに、似ていた。
似ていることが、いちばん現実的だった。
高島は大学公式サイトの研究者ページを開いた。
自分の業績一覧。
論文タイトル。
掲載誌。
研究分野。
つい先ほどまで、確かに表示されていたはずの文字列。
更新ボタンを押す。
Not Found。
要求されたページは存在しません。
画面は丁寧だった。
丁寧な文章は、怒鳴らない。
怒鳴らないから、こちらも怒れない。
怒れないまま、黙る。
黙った者から順に、手続きの外に置かれる。
高島は画面を見つめたまま、動けずにいた。
驚きより先に理解が来る。
理解は、抵抗よりも静かだ。
――名前が消えると、人は驚くほど静かになる。
その事実だけが、はっきりと分かった。
夜。
高島はひとつだけ試す。
自分の名前を、声に出してみる。
「高島……」
声は出た。
出たのに、部屋の中で音が薄かった。
薄い音は、存在の証拠になりにくい。
証拠になりにくいものほど、残らない。
残らないものは、後から「無かったこと」にできる。
高島は気づく。
声に出さないほうが、明日も生活が回る。
回すために、黙る。
黙るのは、選ぶことではない。
選ぶしかないことのように見える。
それでも、黙ると決めたのは自分だ。
そう言い訳できる形だけが、彼に残っていた。
次に消えるのは、講義か。
それとも――名簿の中の自分か。




