■第9章「正当な妨害」:二話(倫理審査)
倫理審査委員会の会議室は、音が少なかった。
窓は閉じられている。
空調の風も弱い。
時計の針だけが、一定の間隔で落ちていく。
高島は椅子に座り、膝の上で書類の角を揃えた。
揃えたところで、内容は変わらない。
変わらないのに、揃えずにはいられなかった。
揃えると、適切に見える。
適切に見えるものは、ここでは安全だ。
机の上にはネームプレートが並んでいる。
名前はある。
だが、専門分野だけが強調されていた。
疫学。
倫理。
法務。
産業安全。
学外委員。
関係者ではない。
関係者ではないことが、公平の証になる。
公平は、反論の形を悪意に見せる。
委員長は穏やかな声で言った。
「研究の意義については理解しています。」
「先生が扱っている史料の希少性も、学術的価値も。」
高島は頷いた。
頷くことが礼儀だと知っている。
礼儀は、不要な波風を立てない。
波風が立たなければ、学生が守れる。
委員長は続けた。
「ただ、現時点ではリスク評価が十分とは言えません。」
十分ではない。
その言葉は、禁止ではない。
禁止ではないから、受け入れやすい。
受け入れやすい言葉ほど、長く残る。
委員の一人が資料を開いた。
ページの余白は均等だ。
見出しの位置も揃っている。
紙の上の正しさが、喉の奥を乾かす。
「感染性の再評価。」
委員が読み上げる。
「外部影響の想定。」
「被験対象の明確化。」
どれも、正しい。
正しいから、否定できない。
否定できないから、追加される。
追加されるほど、時間が削られる。
高島は言葉を探した。
感染性は仮説であり、確証はない。
史料の扱いは密閉であり、拡散は起こり得ない。
学内での手順も整えている。
だが言うほどに、自分が危険を語ることになる。
危険を語れば、危険は現実味を帯びる。
現実味は、配慮の対象になる。
配慮は、審査を増やす。
増えた審査は、誰も否定できない。
委員長が言う。
「却下、という判断ではありません。」
その言葉が、会議室にゆっくり置かれる。
却下ではない。
だから救いに見える。
救いに見えるから、反論しにくい。
反論は、救いを拒む行為に見える。
「継続審査とします。」
委員長はそう言った。
空気が少しだけ軽くなる。
軽くなるのは、希望が生まれたからではない。
終わらなかったからだ。
終わらないことは、続けられることと混同されやすい。
だが、続けるための条件は増えた。
追加資料。
第三者意見。
学外の専門家所見。
安全管理計画の更新。
家族および周囲への配慮計画。
配慮計画。
研究計画ではない。
生活の計画だ。
生活が書式に入った瞬間、研究は研究だけではなくなる。
委員の別の一人が言った。
「念のため、対象の定義を明確にしていただけますか。」
「史料に触れるのは誰か。」
「保管場所はどこか。」
「緊急時の連絡系統は。」
連絡系統。
その語が、高島の胸に小さな穴を開ける。
一話の会議で言われた“共有”が、ここに繋がる。
繋がるものほど、戻しにくい。
戻しにくいものほど、正しい。
高島は質問をしなかった。
期限はいつか。
いつまでに何を出せばよいのか。
その問いは、相手の責任を作る。
責任を作る問いは、攻撃に見える。
攻撃に見える瞬間、自分が不適切になる。
不適切にならない。
その一点が、彼の軸になり始めていた。
会議は淡々と終わった。
資料は揃っている。
議事録は取られる。
結論は“継続”だ。
継続は、止めない。
ただ、始めさせない。
廊下に出ると、足音が自分のものだけだと気づく。
他人の足音がないのではない。
聞こえなくなるほど、静かに歩ける建物だ。
静かに歩ける建物は、手続きを似合わせる。
子どもの席が離れた光景が浮かんだ。
あれも却下ではなかった。
配慮だった。
配慮は説明を必要としない。
説明が不要なものほど、長く残る。
長く残るほど、日常になる。
研究室に戻る。
高島は机の上を見た。
ペンの向きが一つだけ違う。
彼はそれを揃えた。
揃える動作が、自分を“適切な側”に戻す。
パソコンを開く。
倫理審査の再提出フォーマットが届いている。
項目が増えていた。
増えた項目は、どれも妥当だ。
妥当だから、消せない。
消せない妥当は、檻になる。
「被験対象の明確化」という欄を見て、高島は止まる。
被験対象。
自分は何を被験するつもりだった。
史料のはずだ。
歴史のはずだ。
なのに、欄は人を想定している。
カーソルが点滅している。
点滅は催促ではない。
ただ、空白を保つことを許さない。
空白が許されないのは、書式が正しいからだ。
正しい書式は、目的を持たない顔をしている。
目的を持たないものほど、抗議しづらい。
島の帳面が頭に浮かぶ。
名簿。
一覧。
番号。
区画。
測量。
記録。
記録は、事実を残すためのものだ。
だが同時に、扱いやすくするためのものでもある。
扱いやすいものは、動かしやすい。
動かしやすいものは、移せる。
移せるものは、消せる。
高島は、指先をキーボードに置いたまま動けなくなった。
動かないのは恐怖ではない。
選択肢が見えたからだ。
ここで拒めば、自由に近づく。
自由は幸せに似ている。
似ているから、怖い。
怖いから、合理に戻る。
合理は正しい。
高島は入力を始めた。
触れる人は自分のみ。
保管は施錠。
換気は規定値。
廃棄は密封。
緊急連絡はこの番号。
番号。
自分で書きながら、島の番号を思い出す。
番号は形が固定されている。
固定されているものは正しい。
正しいものは通る。
通った正しさは、次の正しさを呼ぶ。
送信ボタンの横に、小さく「必須」の文字が並んでいる。
必須は、善意の顔をしている。
必須は、誰も責めない。
必須は、例外を作らない。
メールが一通届く。
「倫理審査の結果を共有しました。」
共有先は書かれていない。
だが、想像できる。
想像できることが、共有の成功だ。
共有されるたび、関係者は増える。
関係者が増えるほど、決定は遠のく。
遠のくほど、“念のため”が強くなる。
強くなるほど、反論は不適切に見える。
高島はペンを揃えた。
紙の角を揃えた。
画面のウィンドウの位置を揃えた。
揃えることで、自分がまだ“適切な側”にいると確認したかった。
適切である限り、排除されない。
排除されない限り、ここにいられる。
ここにいられる限り、研究室は守れる。
守れるなら、学生は散らない。
父の介護費も、生活も、崩れない。
守る。
守るために、埋める。
埋めるために、言葉を選ぶ。
言葉を選ぶほど、言えないことが増える。
言えないことが増えるほど、黙る理由は整う。
整った理由は、外から見れば誠実だ。
高島は気づく。
倫理審査は研究を止めない。
ただ、研究が始まらない状態を正当化する。
正当化された停滞は、誰も責めない。
責めないから、続く。
続くから、日常になる。
日常は、自由を奪う。
ふと島の地下を思い出す。
「ここにいれば安全です」
その言葉が、どれほど優しかったか。
優しい言葉が、どれほど強かったか。
高島は再提出の最後の欄にカーソルを置く。
「社会的影響への配慮」
配慮を書くほど、社会は彼から距離を取る。
距離を取られるほど、彼は適切になる。
適切になるほど、孤立は静かに成立する。
倫理審査は扉を閉めない。
扉の前に“正しい待合室”を作る。
待合室の中では、何もしないことが一番安全だ。
だから高島は、今日も継続に丸を付ける。




