■第9章「正当な妨害」:一話(念のために)
高島が最初に呼ばれたのは、研究成果の報告ではなかった。
通知は前夜に届いていた。
件名は短かった。
「念のため、お話を。」
短い件名は、拒否の理由を作らせない。
理由がない招集ほど、正しい顔をしている。
高島は返信しなかった。
返信しないことは拒否ではない。
保留だ。
保留は、いつも正しい。
会議室は、研究棟の端にあった。
普段は使わない部屋だった。
使わない部屋ほど、手続きが似合う。
ドアを開けた瞬間、空気の匂いが違った。
消毒剤ではない。
ただ、誰の生活も入り込んでいない匂いだった。
会議室には三人いた。
研究支援課の職員。
学部長補佐。
産業医。
誰も険しくない。
誰も怒っていない。
それが、この場の完成度だった。
机の上に紙コップが四つ並んでいた。
水位は揃っているのに、間隔がわずかに違う。
高島は座ると同時に、無意識に位置を揃えた。
揃えた瞬間、ここが“話し合い”ではなく“手続き”だと理解してしまう。
理解した瞬間に、反論の声は細くなる。
細くなるのは恐怖ではない。
適切でいたい癖だ。
研究支援課の職員が言った。
「まず前提の確認です。」
「まだ未確定な段階ですよね。」
未確定。
それは柔らかい言葉だ。
柔らかい言葉は、否定よりも強い。
職員は紙を一枚ずつ机に滑らせた。
紙は薄い。
薄いのに、角が揃っている。
揃った角は、決定の形をしている。
「感染性の有無が完全には否定できない以上、念のため、学内での取り扱いには慎重さが必要になります。」
否定できない。
以上。
必要。
文の中に、止めるための部品が揃っている。
高島は頷いた。
頷くしかなかったのではない。
頷いたほうが合理的だった。
合理的は正しい。
正しいほうに立てば、責められない。
責められない場所にいることが、いつの間にか目的になっている。
学部長補佐が言った。
「研究そのものを否定するわけではありません。」
「ただ、外部への影響や、大学としての責任を考えると。」
否定しない。
ただ。
責任。
“ただ”は橋だ。
橋が架かると、反論は対岸に追いやられる。
対岸は遠い。
遠いものほど面倒になる。
面倒は不適切に見える。
産業医が紙を見ながら言った。
「ご本人だけでなく、周囲の安全も考慮しないといけません。」
「ご家族も、いらっしゃいますよね。」
家族。
研究の言葉ではない。
生活の言葉だ。
生活の言葉が出た瞬間、研究はもう研究だけではない。
高島の背中がわずかに固くなる。
固くなるのは怒りではない。
守る対象が増えたからだ。
高島は反論の文を頭の中で作った。
未確定なら、検証すべきだ。
不確実なら、研究の価値は増す。
だから続けるべきだ。
だが、その文は口から出ない。
出せば、生活を賭けた反論になる。
生活を賭けた反論は、勝っても失う。
失うのは研究ではない。
学生の時間だ。
家族の安定だ。
父の介護の費用だ。
それらは数字にできる。
数字にできるものほど、正しい顔をする。
研究支援課の職員が、優しく言った。
「念のため、という措置です。」
「先生の研究を守るためでもあります。」
守る。
守るという語が、刃を布で包む。
包まれた刃は、刺されていることに気づきにくい。
気づきにくいまま、人は自分で頷く。
学部長補佐が言う。
「学内での情報共有を進めます。」
「誤解や混乱が出ないように。」
誤解。
混乱。
出ないように。
出ないように、という形は善意だ。
善意は拒みにくい。
拒めない善意ほど、広がる。
高島はここで理解する。
共有とは拡散ではない。
“正しい人たち”の輪を広げることだ。
輪が広がるほど、輪の外は説明の対象になる。
説明の対象になった瞬間、その人はもう同じ机に座れない。
座れない人間は、窓口に回される。
窓口に回された人間は、入口を失う。
入口を失うと、動けない。
動けない状態は、いつも正しい。
産業医が言った。
「念のため、当面は対面での指導は控えてください。」
「オンラインで代替できる範囲で。」
代替。
できる範囲。
その言い方は、島の地下で聞いた言葉と同じ形をしている。
区画。
導線。
最適化。
安全確保。
安全のための最適化は、人を動かさない。
動かさないことが、最も安全だ。
会議は静かに終わった。
誰も「禁止」と言わなかった。
誰も「危険」と言わなかった。
ただ、念のためが積み上がった。
積み上がったものは、後で壁になる。
壁は叩けない。
叩けば自分が乱暴に見える。
乱暴に見える瞬間、こちらが不適切になる。
高島は不適切にならない。
そのために頷ける。
廊下に出たとき、高島のスマートフォンが震えた。
妻からだった。
「あなたの大学から、私の職場に電話があったの。」
妻の声は落ち着いていた。
落ち着いているのが、いちばん怖い。
「安全配慮の共有だって。」
「何かあったときに対応できるように、って。」
対応。
共有。
配慮。
正しい語彙が、家庭に入ってくる。
家庭に入った瞬間、逃げ道は細くなる。
細い逃げ道は、使うと壊れる。
壊れるのは家だ。
だから人は使わない。
高島は言った。
「念のためだ。」
それ以外の言葉が、見つからない。
見つからないのは、言葉が少ないからではない。
正しい言葉が多すぎるからだ。
電話を切ったあと、高島は研究室の机に向かった。
ペンの向きを揃えた。
揃えれば落ち着くはずだった。
だが落ち着いたのは心ではない。
自分の立場だ。
立場が落ち着くほど、動かなくて済む。
動かなくて済むことが、今日の勝利になる。
メールが一通届いていた。
「関係部署と情報共有しました。」
簡潔だった。
共有先は書かれていない。
書かれていないのに、想像できる。
想像できることが、共有の成功だ。
成功した共有は、戻せない。
戻せないものほど、正しい。
会議から二度目の夜。
子どもの学校から連絡があった。
担任は申し訳なさそうな声で言った。
「安全確認の一環として、しばらく距離を取る対応をお願いしたく。」
お願い。
対応。
一環。
言葉が丁寧だ。
丁寧な言葉ほど、拒否しにくい。
「特別扱いではありません。」
「他にも同様のケースがありまして。」
同様のケース。
それは安心させる言葉の形をしている。
安心させるほど、こちらは頷くしかない。
頷いたほうが合理的だからだ。
高島は礼を言った。
説明を求めなかった。
求めれば、家庭が議題になる。
議題になれば、生活が手続きに吸われる。
吸われた生活は、書式になる。
書式になったものは、誰でも扱える。
誰でも扱えるものは、誰の責任でもなくなる。
翌日、子どもの席は少し離れた場所になっていた。
誰も意地悪はしていない。
誰も責めていない。
ただ、念のためだ。
子どもは何も言わなかった。
言わないことが、適切に見える年頃だった。
適切は、家族の中で一番強い。
高島は資料を開いた。
島の記録。
欠落。
検疫。
隔離。
臨時施設。
地下。
研究を進める理由を探した。
だが、理由がどこにも書いていないことに気づく。
正しい手続きは、理由を必要としない。
理由がないものほど、止められない。
止められないのに、進められない。
研究は否定されなかった。
禁止もされなかった。
ただ、進める理由だけが失われた。
それが、最も正しい妨害だった。
止められていない。
だが、続けられない。
続けられないことを、誰も責めない。
責めないものは、長く残る。
長く残るほど、生活に馴染む。
馴染んだものは、自由を奪う。
奪われた自由は、気づかれない。
そして高島は理解してしまう。
この“念のため”は、次に形を変える。
配慮ではなく、審査になる。
確認ではなく、承認になる。
「倫理審査に回します。」
最も静かな確定が、もう用意されている。




