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■第8章「使われなかった選択肢」:三話(今ではない)

翌朝、高島は研究室の机を整えた。

紙の角を揃える。

ペンの向きを揃える。

付箋を色で重ねる。

整えるほど、視界が静かになる。

静かになった視界は、正しい。

正しい視界は、選ばない理由を見つけやすい。

高島はそのことを、もう知っていた。

机の端に、昨日のスマートフォンを置いた。

画面は黒い。

黒い画面は、何も言わない。

言わないものは責めない。

責めないものは、長く残る。

高島はノートを開いた。

新しいページを一枚だけ使う。

一枚だけ、が重要だ。

広げると逃げ道が増える。

増えた逃げ道は、自分を甘やかす。

一枚に収めると、決断に見える。

見える決断は、後から正しさになる。

ページの上に、三つの見出しを書いた。

「学会」

「同業者」

「学内」

字は揃っている。

揃った字は、もう制度の形をしている。

学会。

発表草稿。

倫理委員会への相談。

出せば、島の記録の不自然さは公になる。

公になれば、消しにくくなる。

同業者。

信頼できそうな研究者の名前。

二人。

一人は旧知だ。

一人は学会で挨拶した程度だ。

連絡すれば、第三者の目が入る。

第三者の目は抑止になる。

学内。

窓口。

記録。

手続き。

申請。

そして確認。

確認という語は、責任を帯びない。

帯びないから、拒否できない。

高島は三つの見出しを眺めた。

どれも正しい。

正しいから、怖い。

怖いのに、やるべきだと分かる。

分かるのに、手が動かない。

動かない理由が、机の上に並び始める。

学生。

研究室。

父。

家族。

締切。

統合。

理由は、揃えれば揃えるほど強くなる。

強くなるほど、動かないことが正しくなる。

正しくなると、安心する。

安心した人間は、沈黙を選べる。

沈黙は自由の反対だ。

自由は幸せに似ている。

似ているから怖い。

高島は学会の項に箇条書きをした。

・題目案

・背景

・資料の欠落

・方法

・予備結果

書けば書くほど、発表できてしまう形になる。

形になるほど、実行の現実味が増す。

現実味が増すほど、危険が増す。

危険とは何か。

誰かに殺されることではない。

研究室が止まること。

学生が巻き込まれること。

学内で「面倒な人」になること。

面倒な人になると、窓口が増える。

窓口が増えると、入口が減る。

入口が減ると、研究が止まる。

止まると、守れない。

守れない未来は、生活を壊す。

生活が壊れると、正しさが裏返る。

裏返った正しさは、最初に家族へ刺さる。

高島はペンを置き、呼吸を整えた。

整える。

整えるという行為が、ここでも生きる。

整えると、揺れが減る。

揺れが減ると、撤退が合理になる。

合理は正しい。

正しい撤退ほど、戻れない。

高島は同業者の項に、下書きを書き始めた。

「久しぶりです。」

「相談があります。」

「学内の手続きが不自然で。」

「資料が消えています。」

「研究棟に入れません。」

最後の一文を見た瞬間、高島の指が止まった。

入れません。

その断定は、世界を確定させる。

確定させた瞬間、逃げ道が消える。

高島は「入れません」を消して、こう書き換えた。

「一時的な制限がかかっているようで。」

ようで。

ようでは、まだ曖昧だ。

曖昧なら、相手も深く踏み込めない。

踏み込めなければ、波風は立たない。

波風が立たなければ、学生は守れる。

守れる。

守れるという言葉が、また正しさになる。

正しさになると、動かない理由が増える。

増えた理由は、檻になる。

学内の項を見た。

窓口の名称を書き、必要書類を列挙する。

必要書類。

確認事項。

添付資料。

本人確認。

連絡先。

書けば書くほど、手続きが完成する。

完成した手続きは、誰かにとって都合がいい。

都合がいいのは高島ではない。

だが、都合がいい手続きほど「正しい」と呼ばれる。

正しいと呼ばれた瞬間、逆らう側が悪になる。

悪になると、守れなくなる。

守れないなら、動けない。

動けないから、手続きに従う。

従うことは、選択に見える。

高島は自分が何をしているのか理解してしまった。

逃げ道を作っているのではない。

逃げ道が使えない理由を整えている。

整えれば納得できる。

納得できれば、動かなくて済む。

動かなくて済めば、今日が終わる。

今日が終われば、眠れる。

眠れれば、明日働ける。

働ければ、生活は守れる。

守れるなら、正しい。

その順番は美しい。

美しい順番は、人を黙らせる。

高島自身を。

高島はノートの余白に小さく書いた。

「今ではない理由」

・学生に影響

・研究室の停止

・父の介護

・学会準備の時間不足

・証拠の整理不足

・感情的に見られる

・今動くと、取り返しがつかない

取り返しがつかない。

それは恐怖ではなく、現実の計算だ。

計算は研究者の得意分野だ。

得意な計算で自分を縛るのが、一番効く。

高島は気づいた。

誰も圧をかけていない。

誰も脅していない。

誰も止めていない。

止めているのは、自分だ。

自分が、合理で自分を止めている。

止められた自分は、被害者に見える。

被害者に見えれば、責められない。

責められないものは、守られる。

守られるために、人は自分を止める。

その構造を、彼は研究対象として知っていた。

知っているから、なおさら止められる。

高島はノートを閉じた。

閉じる動作は、今日を終わらせる動作だ。

引き出しを開け、ノートをしまった。

鍵はかけなかった。

触れられる距離に置く。

それだけで、いつかやる、という錯覚が残る。

錯覚が残れば、今日やらなくて済む。

スマートフォンが震えた。

学生から、もう一通。

「先生、学会に出す予定だった草稿って、どうなりますか。」

高島の指先が冷える。

冷えるのは恐怖ではない。

整えた理由が、今まさに自分を支え始めた証拠だ。

返信欄は空白だ。

空白は、どんな言葉も受け入れる形をしている。

受け入れる形は、拒否を含まない。

拒否を含まないから、正しい言い換えができる。

高島は打った。

「今は、動かない。」

送信する前に、一度消した。

消して、少しだけ柔らかくした。

「念のため、様子を見る。」

念のため。

それは、島を地下へ降ろした言葉と同じ形をしていた。

送信ボタンが押された。

押した指は、軽い。

軽い指は、正しい行為に見える。

正しい行為は、後から自分を救う。

救われた自分は、さらに動かなくなる。

そして高島は理解してしまう。

逃げ道は確かに存在した。

存在したのに、使わなかった。

使わなかったのは、脅されたからではない。

止められたからでもない。

正しい理由を揃えたからだ。

次に来るのは、外からの妨害ではない。

彼が揃えた正しさが、外部の正しさと噛み合い、扉を最後まで閉める。

閉まった扉は、誰の責任でもない顔をする。

誰の責任でもないものは、最初から無かったことになる。

最後に画面へ残った言葉は一つだった。

「念のために。」


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