■第8章「使われなかった選択肢」:二話(妻の言葉)
玄関の鍵の音から一晩明けて、妻は台所で手を洗いながら言った。
「今日、大学からまた電話があったよ。」
また。
その一語が、昨日の続きを日常の顔で運んでくる。
日常の顔は丁寧だ。
丁寧だから、痛くない。
痛くないから、治らない。
妻は蛇口を閉め、手を拭きながら続けた。
「安全確認って言ってた。」
安全確認。
責めていない言葉だった。
責めていないから、こちらが勝手に責任を背負う。
背負う責任は、形がない。
形がないから、降ろせない。
高島は椅子に座り、背筋を伸ばした。
姿勢を整える。
整えると、言葉の角が揃う。
角が揃った言葉は、正しく見える。
「大丈夫だと思う。」
高島はそう言い、語尾に逃げ道を付けた。
思う、は保険だ。
保険は真実の硬度を下げる。
硬度が下がると、嘘が嘘に見えにくくなる。
妻は振り向かずに言った。
「あなた、最近、決めた顔してる。」
決めた顔。
指摘は刃ではない。
鏡だ。
鏡は反論できない。
高島は一瞬だけ黙った。
黙ると、家の音が増える。
冷蔵庫の低い唸り。
時計の秒針。
湯が沸く前の気配。
生活の音。
生活の音は、正しさの根拠になる。
正しさが根拠になると、人は壊せない。
壊せないもののために、人は黙れる。
妻は続けた。
「何を決めたの。」
問いの形は柔らかい。
柔らかいほど断りにくい。
断りにくい問いに対して、人は正しい答えを探す。
高島の手元には、正しい答えが並んでいた。
研究室を守る。
学生を守る。
父の介護費を確保する。
子どもの進学を止めない。
家を維持する。
どれも正しい。
正しいものが並ぶほど、他の選択肢が悪に見える。
妻は棚からカップを二つ出し、並べた。
白い陶器の縁が、朝の光を返した。
縁には小さな欠けが一つだけあり、指でなぞると引っかかった。
引っかかりはすぐに分かるのに、直し方はない。
その欠けを見ていると、手を伸ばすこと自体が「壊す」に近づく。
だが手が伸びた瞬間に、生活が崩れる。
生活が崩れると、正しさが裏返る。
高島は正しさが裏返るのを恐れている。
だから正しさを選ぶ。
選ぶしかない。
妻は棚からカップを二つ出し、並べた。
並べ方が几帳面だった。
高島の癖が家にも移っている。
移った癖は、守られている証拠に見える。
見えるから、安心する。
安心は、次の異常を深く刺す。
高島は言った。
「研究費の締切が近い。」
締切。
期限。
期限は、納得させるための万能語だ。
万能語は議論を終わらせる。
妻は小さく頷いた。
「そうだよね。」
同意の形だった。
同意は優しく会話を終わらせる。
終わった会話は、次の問いを奪う。
奪われた問いの代わりに、沈黙が残る。
沈黙は、正しい人から先に使う。
妻は湯を注ぎながら言った。
「あなた、無理してない。」
無理してない、は優しさの形をしている。
優しさは拒否しにくい。
拒否しにくい優しさには、正しい言葉を返すのが一番早い。
「大丈夫。」
高島はまた言った。
万能な言葉だった。
万能な言葉は具体を隠す。
具体を隠すほど、相手は踏み込めない。
踏み込めないと、波風が立たない。
波風が立たなければ、学生は守れる。
守れるなら、正しい。
妻はカップを置き、湯気を見た。
湯気はすぐに消える。
消えるものは、ここでは当たり前だ。
当たり前の消え方が、怖い。
妻は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「もし、大学があなたを守れないなら。」
もし。
その三文字で、部屋の空気が一段冷えた。
冷えるのは恐怖ではない。
選択肢が現れるからだ。
妻は続けた。
「どこかに相談したほうがいいんじゃない。」
相談。
外部。
窓口。
手続き。
告発。
高島の頭の中に、文字が整列する。
学内相談窓口。
コンプライアンス。
労務。
外部通報。
学会倫理委員会。
報道。
どれも正しい。
正しいからこそ怖い。
正しい行動は取り返しがつかない。
取り返しがつかないとき、責任は戻る。
高島に戻る。
妻に戻る。
子どもに戻る。
学生に戻る。
波風は、正しい人から先に傷つく。
それが現実だ。
現実は、合理に似ている。
似ているから、正しいと言い換えられる。
高島は言った。
「今は、判断材料が足りない。」
研究者の言い方だった。
論理の形をしている。
形が整っていると、相手は黙る。
黙らせるつもりはなくても。
妻は少しだけ眉を寄せた。
寄せた眉は、心配の形だ。
形がある心配は、こちらの罪悪感を増やす。
高島は罪悪感を、合理に変換する。
「学生に影響が出る。」
出る、という未来形を使った。
未来形はまだ起きていない。
まだ起きていないなら、止められる気がする。
止められる気がすると、人は今の沈黙を正当化できる。
妻は言った。
「でも、あなたが壊れたら意味がないよ。」
壊れる。
その語が、高島の胸の奥を撫でた。
壊れないために整えてきた。
整えるために沈黙してきた。
沈黙のために、真実を削ってきた。
削った真実の上で、生活が成り立っている。
成り立っているものを壊すのが自由だ。
自由は幸せに似ている。
似ているから、憧れる。
憧れるから、怖い。
妻は責めない。
責めないから、逃げ道は「選択」になる。
選択になると、選ばなかった責任が残る。
残る責任は、どこにも預けられない。
高島は言った。
「今は、守るほうを優先する。」
守る。
家庭の中で最も強い言葉だった。
強い言葉は、弱さを隠す。
隠れた弱さは、後で取り返せない形になる。
妻はしばらく黙った。
黙ってから、静かに言った。
「あなたが守ってるの、何。」
問いが核心に近づく。
近づく問いは危険だ。
危険な問いには、正しい答えで距離を取る。
高島は言った。
「全部だ。」
全部。
具体を消す総括だった。
総括は議論を終わらせる。
終わった議論のあとには、何も残らない。
残らないから、整えられる。
整えられるものは、記録になる。
記録は、後から自分を縛る。
妻はカップを持ち上げ、湯気を見た。
湯気はまた消える。
消えるのに、誰も止めない。
妻は最後に言った。
「今じゃない、って顔してる。」
鏡だった。
鏡は正確だ。
正確なものは、言い逃れを許さない。
高島は否定しなかった。
否定しないことが、肯定になる。
肯定は、次の行動を決める。
その夜、高島はメモ帳を開いた。
黒い画面に白い文字を打った。
「外部相談は、今ではない。」
書けば整う。
整えば正しく見える。
正しく見えると、次も選ばない。
そして高島は理解してしまった。
逃げ道は確かに存在した。
存在したからこそ、使わなかった理由が正しい形で残る。
翌朝、学生からまたメッセージが来た。
「先生、どう動けばいいですか。」
高島の指は止まった。
止まった指が、次に選ぶ言葉をもう知っていた。
「今ではない。」




