表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/29

■第8章「使われなかった選択肢」:一話(学生の問い)

学部運営会議の翌朝から数えて、二度目の朝だった。

高島は研究室の椅子に座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。

画面には、昨夜の一文が残っている。

「先生、研究棟に入れないって本当ですか。」

本当か。

確認の形をした問いだった。

責めていない。

責めていないから、逃げ道がない。

高島は返信欄を開いた。

白い空白が現れた。

空白は、何でも入る形をしている。

だから怖い。

指先が浮いたまま止まる。

止まった指は、まだ打っていないのに痕跡に見える。

痕跡は残したくない。

残した瞬間、説明が始まる。

説明が始まると、世界が固定される。

固定された世界は、戻れない。

高島は返信欄を閉じた。

閉じるという動作が、拒否の代わりになる。

拒否ではない。

保留だ。

保留は、正しい顔をしている。

机の上の紙の角が、わずかにずれていた。

高島は指先で揃えた。

揃えた途端、呼吸が一段深くなる。

深くなった呼吸は、思考を動かす。

動いた思考は、余計なものを見せる。

使えるはずの選択肢だ。

見えるほど、使わない痛みが増える。

高島は痛みを、痛みとして扱わなかった。

扱うと、感情になる。

感情は、手続きに向かない。

彼はずっと、手続きに向くように生きてきた。

机の上には、昨夜印刷したメールが置かれている。

件名は簡潔だった。

「研究推進体制の整理について」。

差出人は部署名だけだ。

宛先は関係各位だ。

誰に返せばいいのかが、最初から無い。

無いものは、探しにくい。

探しにくいものは、諦めやすい。

高島はその紙を一度だけ撫で、角を揃え直した。

紙は冷たい。

冷たいまま、正しい。

スマートフォンがまた震えた。

同じ学生ではない。

別の学生の名前が表示された。

名が表示されるだけで、胸の奥が軽くなる。

軽くなることが、危うい。

高島は出なかった。

出ないことは、忙しさに見える。

忙しさは、理解されやすい。

理解されやすい理由ほど、罪悪感が薄まる。

薄まった罪悪感の上で、人は選ばない。

画面に戻る。

「先生、研究棟に入れないって本当ですか。」

一文のまま、待っている。

待つ形は、催促ではない。

催促でないものは、断りにくい。

断りにくいほど、こちらが悪く見える。

高島は、悪く見えることを避けてきた。

避けるために、正しさを揃えてきた。

学生が悪意で聞いているわけではない。

研究の継続が気になるだけだ。

ゼミの予定が気になるだけだ。

進路が気になるだけだ。

生活が、ここにかかっているだけだ。

高島は学生名簿を思い浮かべる。

修士へ進む者。

就職活動を控えた者。

外部資金の採択を前提に動いている者。

この研究室が「ある」ことを前提に、人生を組んでいる。

前提が崩れると、説明が必要になる。

説明は、誰かの責任を生む。

責任は、波風を生む。

波風は、学生にかかる。

高島は波風を避けたい。

避けたいのは正義ではない。

生活だ。

生活は、正しい顔をしている。

だから厄介だ。

高島は返信欄を開いた。

「はい」と打てば早い。

早い返事は、誠実に見える。

誠実は、刃になる。

「いいえ」と打てば嘘になる。

嘘は、後で資料になる。

資料になる嘘は、誰かの机に並ぶ。

並んだ瞬間、整えられてしまう。

整えられた嘘は、真実より強い。

高島は文字を打った。

消した。

打った。

消した。

消せるという安心が、言葉を軽くする。

軽くなった言葉は、後で重くなる。

分かっているのに、手が止まらない。

止めるより、揃えるほうが楽だからだ。

電話が鳴った。

画面に、同じ学生の名前が出た。

高島は一瞬だけ、呼吸を整えた。

整えると、正しい声が出る。

正しい声は、相手を黙らせやすい。

高島は出てしまった。

「先生。」

声が若い。

若い声には未来が混じる。

未来が混じると、こちらの沈黙が罪に見える。

「今、研究棟の前にいるんですけど。」

学生は言った。

電話の向こうで風の音がした。

構内の風は、誰にも責められない。

責められない音は、孤立を目立たせる。

高島の背中が冷えた。

冷えるのは恐怖ではない。

確定の前触れだ。

「カードが反応しないって、噂で。」

噂。

噂は便利だ。

事実ではない場所に置ける。

置けるうちは、まだ軽い。

軽いあいだは、引き返せる。

引き返せると思えるから、人は動かない。

高島は言った。

「今は、確認中だ。」

確認中。

あのスピーカーの声と同じ語彙だった。

同じ語彙を使うと、同じ側に立てる。

同じ側に立てると、安心する。

安心した瞬間に、道が閉じる。

学生が続けた。

「教授会とか、学部とか、何かありましたか。」

あった。

ある。

議事要旨の一文。

統合検討。

外部資金。

対象。

名指しされない決定。

学生は理由を欲しがっている。

理由があれば耐えられる。

理由がないと怖い。

怖いのは学生のほうだ。

だからこそ、こちらが理由を言ってはいけない。

理由を言えば、怖さが現実になる。

現実になれば、波風になる。

波風は学生にかかる。

高島は言った。

「大丈夫だ。」

万能な言葉だった。

万能な言葉は具体を消す。

具体が消えると、反論も消える。

学生は言葉を探す。

探す間が生まれる。

間は、真実が入り込む余地になる。

高島は先に言った。

「君たちには影響が出ないようにする。」

影響。

範囲を曖昧にできる言葉だった。

曖昧なら、まだ確定していないふりができる。

ふりができれば、今日を越えられる。

今日を越えれば、締切に近づく。

締切に近づけば、正しさが増える。

正しさが増えれば、選ぶしかなくなる。

学生の声が少しだけ軽くなった。

「先生、もし何かあったら。」

もし。

その瞬間に、道が見える。

見えた道は、使うと波風になる。

波風になれば、学生が巻き込まれる。

巻き込まれれば、研究が止まる。

止まれば、修了が遅れる。

遅れれば、就職が崩れる。

崩れれば、責任が生まれる。

責任は誰が取る。

高島だ。

高島が取れるのか。

取れない。

取れないなら、取らないほうが合理的だ。

合理的。

正しい。

高島は、口の中でその二つを揃えた。

学生が待っている。

待つ形は、責めていない。

責めていないから、逃げられない。

高島は言った。

「今は、騒がないほうがいい。」

自分の声が遠い。

遠い声は、正しい判断のように聞こえる。

学生が小さく息を吸う音がした。

「分かりました。」

理解の合図だった。

理解が成立した瞬間に、道が一つ閉じる。

高島は最後に言った。

「今日は帰りなさい。」

命令ではない。

配慮の形をしている。

配慮は拒否しにくい。

拒否しにくい配慮ほど、効く。

通話が切れた。

切れたあと、研究室が静かになった。

静かになると、耳が自分の呼吸を拾う。

呼吸は整っている。

整っているから、正しい。

正しい沈黙は、誰も責めない。

責めない沈黙は、罪を薄める。

薄めた罪の上で、人は次も黙れる。

高島は机の角を揃え直した。

揃えることで、言わなかったことが正しく見える。

正しく見えると、次も言わない。

高島は立ち上がり、窓のブラインドを指先で一本だけ戻した。

戻した隙間から構内が見える。

人が歩いている。

歩いているだけで、正しさが成立している。

成立している世界に、自分の不成立を混ぜたくない。

だから彼は、使えるはずの道を、名としては呼ばなかった。

「学内」「外」「公」。三つの札だけが頭の中で並び、どれも裏返しのまま残った。裏返しにした札は、選んでいないふりができる。ふりができるうちは、まだ安全だ。

安全は、自由に似ている。

似ているから、同じものとして扱ってしまう。

スマートフォンが震えた。

今度は、妻の名前だった。

画面に出るのは名前だけだ。

本文は、まだない。

空白が先に来る。

今ではない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ