■第8章「使われなかった選択肢」:一話(学生の問い)
学部運営会議の翌朝から数えて、二度目の朝だった。
高島は研究室の椅子に座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面には、昨夜の一文が残っている。
「先生、研究棟に入れないって本当ですか。」
本当か。
確認の形をした問いだった。
責めていない。
責めていないから、逃げ道がない。
高島は返信欄を開いた。
白い空白が現れた。
空白は、何でも入る形をしている。
だから怖い。
指先が浮いたまま止まる。
止まった指は、まだ打っていないのに痕跡に見える。
痕跡は残したくない。
残した瞬間、説明が始まる。
説明が始まると、世界が固定される。
固定された世界は、戻れない。
高島は返信欄を閉じた。
閉じるという動作が、拒否の代わりになる。
拒否ではない。
保留だ。
保留は、正しい顔をしている。
机の上の紙の角が、わずかにずれていた。
高島は指先で揃えた。
揃えた途端、呼吸が一段深くなる。
深くなった呼吸は、思考を動かす。
動いた思考は、余計なものを見せる。
使えるはずの選択肢だ。
見えるほど、使わない痛みが増える。
高島は痛みを、痛みとして扱わなかった。
扱うと、感情になる。
感情は、手続きに向かない。
彼はずっと、手続きに向くように生きてきた。
机の上には、昨夜印刷したメールが置かれている。
件名は簡潔だった。
「研究推進体制の整理について」。
差出人は部署名だけだ。
宛先は関係各位だ。
誰に返せばいいのかが、最初から無い。
無いものは、探しにくい。
探しにくいものは、諦めやすい。
高島はその紙を一度だけ撫で、角を揃え直した。
紙は冷たい。
冷たいまま、正しい。
スマートフォンがまた震えた。
同じ学生ではない。
別の学生の名前が表示された。
名が表示されるだけで、胸の奥が軽くなる。
軽くなることが、危うい。
高島は出なかった。
出ないことは、忙しさに見える。
忙しさは、理解されやすい。
理解されやすい理由ほど、罪悪感が薄まる。
薄まった罪悪感の上で、人は選ばない。
画面に戻る。
「先生、研究棟に入れないって本当ですか。」
一文のまま、待っている。
待つ形は、催促ではない。
催促でないものは、断りにくい。
断りにくいほど、こちらが悪く見える。
高島は、悪く見えることを避けてきた。
避けるために、正しさを揃えてきた。
学生が悪意で聞いているわけではない。
研究の継続が気になるだけだ。
ゼミの予定が気になるだけだ。
進路が気になるだけだ。
生活が、ここにかかっているだけだ。
高島は学生名簿を思い浮かべる。
修士へ進む者。
就職活動を控えた者。
外部資金の採択を前提に動いている者。
この研究室が「ある」ことを前提に、人生を組んでいる。
前提が崩れると、説明が必要になる。
説明は、誰かの責任を生む。
責任は、波風を生む。
波風は、学生にかかる。
高島は波風を避けたい。
避けたいのは正義ではない。
生活だ。
生活は、正しい顔をしている。
だから厄介だ。
高島は返信欄を開いた。
「はい」と打てば早い。
早い返事は、誠実に見える。
誠実は、刃になる。
「いいえ」と打てば嘘になる。
嘘は、後で資料になる。
資料になる嘘は、誰かの机に並ぶ。
並んだ瞬間、整えられてしまう。
整えられた嘘は、真実より強い。
高島は文字を打った。
消した。
打った。
消した。
消せるという安心が、言葉を軽くする。
軽くなった言葉は、後で重くなる。
分かっているのに、手が止まらない。
止めるより、揃えるほうが楽だからだ。
電話が鳴った。
画面に、同じ学生の名前が出た。
高島は一瞬だけ、呼吸を整えた。
整えると、正しい声が出る。
正しい声は、相手を黙らせやすい。
高島は出てしまった。
「先生。」
声が若い。
若い声には未来が混じる。
未来が混じると、こちらの沈黙が罪に見える。
「今、研究棟の前にいるんですけど。」
学生は言った。
電話の向こうで風の音がした。
構内の風は、誰にも責められない。
責められない音は、孤立を目立たせる。
高島の背中が冷えた。
冷えるのは恐怖ではない。
確定の前触れだ。
「カードが反応しないって、噂で。」
噂。
噂は便利だ。
事実ではない場所に置ける。
置けるうちは、まだ軽い。
軽いあいだは、引き返せる。
引き返せると思えるから、人は動かない。
高島は言った。
「今は、確認中だ。」
確認中。
あのスピーカーの声と同じ語彙だった。
同じ語彙を使うと、同じ側に立てる。
同じ側に立てると、安心する。
安心した瞬間に、道が閉じる。
学生が続けた。
「教授会とか、学部とか、何かありましたか。」
あった。
ある。
議事要旨の一文。
統合検討。
外部資金。
対象。
名指しされない決定。
学生は理由を欲しがっている。
理由があれば耐えられる。
理由がないと怖い。
怖いのは学生のほうだ。
だからこそ、こちらが理由を言ってはいけない。
理由を言えば、怖さが現実になる。
現実になれば、波風になる。
波風は学生にかかる。
高島は言った。
「大丈夫だ。」
万能な言葉だった。
万能な言葉は具体を消す。
具体が消えると、反論も消える。
学生は言葉を探す。
探す間が生まれる。
間は、真実が入り込む余地になる。
高島は先に言った。
「君たちには影響が出ないようにする。」
影響。
範囲を曖昧にできる言葉だった。
曖昧なら、まだ確定していないふりができる。
ふりができれば、今日を越えられる。
今日を越えれば、締切に近づく。
締切に近づけば、正しさが増える。
正しさが増えれば、選ぶしかなくなる。
学生の声が少しだけ軽くなった。
「先生、もし何かあったら。」
もし。
その瞬間に、道が見える。
見えた道は、使うと波風になる。
波風になれば、学生が巻き込まれる。
巻き込まれれば、研究が止まる。
止まれば、修了が遅れる。
遅れれば、就職が崩れる。
崩れれば、責任が生まれる。
責任は誰が取る。
高島だ。
高島が取れるのか。
取れない。
取れないなら、取らないほうが合理的だ。
合理的。
正しい。
高島は、口の中でその二つを揃えた。
学生が待っている。
待つ形は、責めていない。
責めていないから、逃げられない。
高島は言った。
「今は、騒がないほうがいい。」
自分の声が遠い。
遠い声は、正しい判断のように聞こえる。
学生が小さく息を吸う音がした。
「分かりました。」
理解の合図だった。
理解が成立した瞬間に、道が一つ閉じる。
高島は最後に言った。
「今日は帰りなさい。」
命令ではない。
配慮の形をしている。
配慮は拒否しにくい。
拒否しにくい配慮ほど、効く。
通話が切れた。
切れたあと、研究室が静かになった。
静かになると、耳が自分の呼吸を拾う。
呼吸は整っている。
整っているから、正しい。
正しい沈黙は、誰も責めない。
責めない沈黙は、罪を薄める。
薄めた罪の上で、人は次も黙れる。
高島は机の角を揃え直した。
揃えることで、言わなかったことが正しく見える。
正しく見えると、次も言わない。
高島は立ち上がり、窓のブラインドを指先で一本だけ戻した。
戻した隙間から構内が見える。
人が歩いている。
歩いているだけで、正しさが成立している。
成立している世界に、自分の不成立を混ぜたくない。
だから彼は、使えるはずの道を、名としては呼ばなかった。
「学内」「外」「公」。三つの札だけが頭の中で並び、どれも裏返しのまま残った。裏返しにした札は、選んでいないふりができる。ふりができるうちは、まだ安全だ。
安全は、自由に似ている。
似ているから、同じものとして扱ってしまう。
スマートフォンが震えた。
今度は、妻の名前だった。
画面に出るのは名前だけだ。
本文は、まだない。
空白が先に来る。
今ではない。




