■第7章「小さな成功」:三話(入館できない)
翌朝。
申請フォームの空白を閉じた指先のまま、高島はいつも通りの時間に大学へ着いた。
冬の空気が頬の内側まで刺した。
息を吐くと白く広がり、すぐに消える。
消えるものは、ここでは当たり前だ。
構内は静かだった。
講義前の時間帯は、静かであるほど正しい。
正しい静けさは、誰も責めない。
責めない静けさは、孤立を目立たせる。
研究棟の入口に立つ。
ガラス越しに廊下が見える。
掲示板が見える。
階段が見える。
見えるのに、遠い。
高島はカードを取り出した。
財布の中でカードは一定の向きに揃えてある。
机の上のペンと同じ向きだ。
癖だと自覚している。
自覚している癖は、手放しにくい。
守れる秩序は守ったほうがいい。
守れるうちは、まだ守られている。
守られていると思えるうちは、疑わないで済む。
高島はカードをかざした。
ピ、と鳴るはずの音が鳴らなかった。
赤いランプが点いた。
小さな赤だった。
小さいほど、間違いの余地がない。
もう一度かざす。
同じ赤。
角度を変える。
距離を変える。
赤。
表示板に短い文字が出た。
――権限がありません。
権限。
その二文字は、暴力ではなく制度の匂いがした。
制度の匂いは怒りを薄める。
怒りが薄まると、言葉が出ない。
高島は笑わなかった。
驚きもしなかった。
怒りも、すぐには来なかった。
代わりに呼吸がゆっくりになった。
遅くなるほど、胸の奥が冷える。
「事務のミスか」
口に出すと、言葉が自分に跳ね返ってきた。
ミスなら、直る。
直るなら、安心できる。
安心できる言葉を、まず選んだ。
選ぶしかなかった。
その場で立ち尽くすより、ミスだと思うほうが楽だった。
高島はインターホンを押した。
押した指先の感覚が残る。
残る感覚は、手続きを始めた証拠になる。
スピーカーから若い声がした。
「はい」
声は丁寧だった。
丁寧な声は敵意がない。
敵意がないと、こちらが悪い気がする。
高島は名乗った。
所属と名前を、ゆっくり言った。
ゆっくり言うのは、正しい人の話し方だ。
「すみません」
相手はすぐに言った。
すみませんは、拒否の前置きに使われる。
「カードが反応しないようでして」
相手は言い換えた。
あなたが入れない、とは言わない。
反応しない、という機械の問題にする。
機械の問題なら、誰も悪くない。
「確認いたしますので、少々お待ちください」
少々は便利な言葉だった。
少々なら、問い詰めるのは大げさに見える。
大げさに見えるのが嫌で、人は待つ。
高島はガラス越しの廊下を見た。
中では誰かが歩いている。
足取りは軽い。
軽い足取りは、正しい日常の証明だ。
しばらくして、スピーカーがまた鳴った。
声は変わらない。
変わらない声は、決定が変わらないことを示す。
「大変恐れ入ります」
恐れ入りますは、決定の前に置かれる柔らかい板だ。
柔らかい板は痛みを伝えにくい。
伝えにくい痛みほど、長く残る。
「現在、入館権限の一部が一時停止になっております」
一時停止。
停止は拒絶ではない。
停止は、再開の可能性を含む。
可能性があると言われると、人は怒りにくい。
高島は喉が鳴るのを感じた。
「理由は」
その一語を言いかけて、止めた。
理由を聞くのは、相手を責める形になる。
責める形は、この場では不適切だ。
不適切でいたくない。
不適切でいると、手続きが長引く。
長引けば、目立つ。
目立てば、説明が必要になる。
説明は、世界を確定させる。
高島は息を吐いた。
「何か手続きが必要でしょうか」
理由ではなく、手順を選んだ。
手順なら、正しい側にいられる。
スピーカーは答えた。
「確認が必要でして」
「安全配慮の観点から」
「本日中は、こちらからの解除ができません」
「恐れ入りますが、所属の窓口へ」
確認。
安全配慮。
解除できません。
窓口。
どれも丁寧で、どれも刺さる。
丁寧な言葉は攻撃ではない。
攻撃ではないから、殴り返せない。
高島は「分かりました」と言った。
分かりましたは、負けではない。
理解の合図だ。
理解できる側に立つことが、彼の誇りだった。
理解できるから、反論できない。
反論できないから、静かに引く。
それでも、引くことを選んだ。
高島はカードを財布に戻した。
戻すとき、向きを揃えた。
揃えると落ち着く。
落ち着くと判断ができる。
判断ができると行動が正しく見える。
正しく見える行動は、あとで自分を責めにくい。
高島はスマートフォンを取り出し、事務課の連絡先を探した。
候補一覧が出ない。
アドレス帳にもない。
検索欄に「事務」と打つ。
出てくるのは別の部署ばかりだ。
いつも最初に出てきたはずの連絡先がない。
消えている。
消えているのに、誰も困っていない形をしている。
困っていない形をしているものほど、怖い。
廊下の奥で笑い声がした。
短く、日常的な音だった。
日常の音は残酷だ。
自分だけが日常から外れていることを証明する。
高島は一歩、扉から距離を取った。
立ち尽くすという行為が急に恥ずかしくなった。
誰かに見られたくない。
見られて説明したくない。
説明できないからではない。
説明が、世界を確定させてしまう気がした。
昨夜の数値が浮かぶ。
動いた数字。
成立。
成立は希望ではなく、手順の始まりだ。
手順が始まると、許可が必要になる。
許可が必要になると、窓口が増える。
窓口が増えると、入口が減る。
島の地下で起きたことと同じだ。
入口を減らし、導線を揃え、迷いを消す。
迷いが消えると、反論が減る。
反論が減ると、正しさだけが残る。
高島は研究棟を見上げた。
建物は存在している。
研究も進む。
論文も出る。
学生も育つ。
その中に、自分の席だけがない。
それは閉じられたのではない。
使われなくなっただけだ。
使われなくなったものは、最初から無かったことにできる。
そのやり方を、彼は研究対象として理解していた。
理解しているから、怖い。
高島は手をポケットから出し、指先で空を撫でた。
紙の角を揃えるように。
揃えるものがないのに、揃えようとする癖だけが残る。
癖は人を守る。
同時に、癖は人を縛る。
彼は振り返らずに歩き出した。
振り返れば、理由を探してしまう。
理由はいつも正しい。
正しい理由は、扉を二度と開かせない。
そのとき、スマートフォンが震えた。
学生からのメッセージだった。
短い一文だけが表示された。
「先生、研究棟に入れないって本当ですか。」
高島の指は、返信欄の空白に触れた。
「はい」と打てば、世界が確定する。




