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■第7章「小さな成功」:二話(成立)

Not Found を見た翌日、高島は研究室の机に帳簿の写しを広げた。

窓の外はまだ灰色で、構内の放送だけが先に整っていた。

自販機のコーヒーは熱いのに味がしない。

熱さだけが、時間を知らせる。

原本は、所在が確かめられない。

所在が確かめられないこと自体が、所在の証明になってしまう。

彼は紙束の角を揃えた。

揃えると、数字の欠けが目立つ。

目立てば、埋めたくなる。

埋めたいと思った瞬間に、もう片足が入っている。

推定埋蔵量。

当時の産出量。

搬出量の記録が途中で止まる年。

止まり方が、戦況と一致しすぎている。

一致しすぎるものは、偶然ではなく手順だ。

高島は式を書き始めた。

鉛筆で。

消せるからだ。

消せるという安心は、考える速度を上げる。

「……残っているとしたら」

口に出した途端、喉が乾いた。

研究ではない。

だが研究と同じ形をしている。

形が同じなら、手は勝手に動く。

当時の相場を、現在の指標に置き換える。

精錬コストを仮置きする。

汚染を前提にした減価を乗せる。

数字はすぐに並んだ。

研究費。

学生の雇用。

父の介護費。

研究室の存続。

並んだ数字は、生活に似る。

似たものは、正しく見える。

正しく見えるから、危うい。

高島は帳簿を閉じた。

閉じても、計算は閉じない。

閉じたのは、視界だけだ。

視界が閉じると、頭の中で数字が光る。

光るものは、追ってしまう。

追うのは、欲だ。

高島は欲という言葉を、否定しなかった。

否定しなかったことが、いちばん怖かった。

だから彼は、逃げ道を作った。

正しい逃げ道。

学者の逃げ道。

安全で、小さく、再現できる実験。

「汚染」を、排除ではなく中和として扱う。

奇跡ではなく仕組みとして扱う。

汚染が消えないなら、折り合いをつける。

折り合いをつけるという言葉は、倫理ではなく運用の言葉だ。

海域調査の断片を読み返す。

検疫。

隔離。

臨時施設。

そこに書かれているのは「危険があった」ではない。

「危険を管理した」だ。

管理できたなら、制御できる。

制御できるなら、条件の設計ができる。

設計できるなら、申請ができる。

申請できるなら、許可が出る。

許可が出れば、誰も責めない。

責められるのは、許可のない側だ。

高島は、その順番の正しさを理解できてしまった。

理解できることが、罠だった。

実験は簡素だった。

条件を揃える。

ひとつだけを変える。

結果を読む。

読む前に、紙の角を揃える。

揃える行為が、誤差を許さない。

誤差を許さない癖が、誤差の意味を変える。

高島は数値を入力した。

画面に、グラフが一本だけ現れた。

一本の線は、議論を終わらせる。

終わるから、次に進める。

数値が動いた。

ほんのわずか。

誤差と呼べる程度。

だが誤差は散らない。

上下に散らず、同じ方向へ寄った。

寄るということは、寄せる力があるということだ。

寄せる力があるなら、触れている。

触れているなら、成立している。

その瞬間、胸の奥で何かが小さく折れた。

その瞬間、指先の汗が乾くのを感じた。

キーボードの隙間に吸われるような、薄い湿り気だった。

自分の身体が、結果の側へ寄っていく。

寄っていくのに、痛みはない。

痛みがないことが、いちばん怖い。

折れたのは不安ではない。

折れたのは躊躇だ。

躊躇が折れると、人は早くなる。

その日の夕方、高島は学部の小さな会議室に呼ばれた。

「来年度の開講計画の確認です」

議題は柔らかい言葉で始まった。

議事録担当の若手職員が、丁寧な声で資料を配る。

紙は白い。

白すぎる紙は、修正が入っていないことを示す。

担当者欄の空白が、一瞬だけ目に刺さった。

刺さったが、誰もそこを見ない。

見なくていいように整えられているからだ。

学部長が言う。

「外部資金の獲得状況に応じて、研究室の配置を見直します」

見直しは合理的だ。

合理的だから、反論が難しい。

「学生の指導体制は配慮します」

配慮は拒否しにくい。

拒否しにくいから、受け入れたことになる。

高島は頷いた。

頷いた瞬間、自分が「正しい側」に立っている感覚がした。

正しい側は、安心する。

安心した人間は、次の一文を読める。

次の一文を読める人間だけが、生き残る。

会議の後、職員からメールが来た。

件名は簡潔だった。

「研究推進体制の整理について」

宛先は「関係各位」。

差出人欄は部署名だけで、個人名がない。

Cc には知らないアドレスが二つ混じり、Bcc は見えなかった。

見えないものは、最初から無いものとして処理される。

本文は丁寧で、敵意がない。

だから高島は、文章の完成度を評価してしまう。

主語が曖昧で、責任が拡散している。

それでも論理は美しい。

美しい論理は、人を黙らせる。

高島はそのメールを印刷し、紙の角を揃えた。

揃えた紙は、罪悪感を薄める。

薄めた罪悪感の上なら、次の数値が読める。

声は出さなかった。

声に出すと、現実になるからだ。

現実になれば、もう戻れない。

彼は机の上で、もう一度だけ式を補正した。

揃えながら数値を確認する。

揃えながら誤差を潰す。

揃えながら現実へ近づく。

近づくことを、彼は「研究」と呼べる。

呼べるなら、正しい。

正しいなら、進める。

その手つきの中で、ふいに一節が浮かんだ。

地下の記録だ。

紙の角が揃っている掲示。

混乱防止のため。

公平性確保のため。

数値が安定しました。

高島は一度、瞬きをした。

瞬きをしただけで、連想は止まらない。

――そのころ、地下では。

水の匂いが、少し変わった。

金属の味が薄れた。

喉を刺す感じが減った。

「良くなった」という事実だけが先に広がった。

事実は安心を作る。

安心は質問を減らす。

質問が減ると、規則が残る。

規則が残ると、番号が生活になる。

配給の列で、子どもが母親に聞いた。

「僕は何番」

母親は札を見た。

「十七番よ」

子どもは笑った。

母親は笑わなかった。

笑わない理由は、説明できなかった。

医療区の係が言った。

「数値が安定しました」

数値が安定したなら、安全だ。

安全なら、動線は変えられる。

動線が変わると、家族は分けられた。

泣く理由は、説明できない。

説明できないものは記録されない。

記録されないものは、無かったことになる。

成立してしまう。

それが地下の合理だった。

――そして、現代。

高島は画面の数値を見つめていた。

改善は一つではない。

条件を揃えるほど、寄り方ははっきりする。

はっきりするほど、説明が書ける。

説明が書けるほど、申請が通る。

通れば、研究室は守れる。

守れれば、学生は散らない。

守れるという言葉が、ここでも万能だった。

高島はペンを置いた。

紙の角を揃え直した。

揃えた角が、妙に鋭く見えた。

刃物のようだった。

小さな成功は、刃の形をしている。

切るのは他人ではない。

自分の中の「止まれ」だ。

成立とは完成ではない。

戻れなくなる条件が整った、という意味だ。

条件が整ったなら、次は手順を整えるだけだ。

整えれば、通る。

通れば、守れる。

守れるなら、正しい。

高島は椅子に深く腰掛けた。

そして、最初の帳簿の頁をもう一度開いた。

開いてしまったことが、答えだった。

選ぶしかなかった。

生活がそう言う。

それでも、選んだ。

彼自身が、そうした。

翌朝、研究費申請フォームの「共同研究者」欄が、彼のカーソルを待っていた。

その空白は、埋められる形をしていた。

カーソルは点滅している。

点滅は催促ではなく、待機の形をしている。

待機の形は、拒否を含まない。

ただ、手順だけが残る。

押さないという選択肢は、もう説明の外にあった。

次に成立するのは研究ではない。

――“空白を埋める許可”だ。


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