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■第7章「小さな成功」:一話(整える机)

学部運営会議の翌朝、研究室の鍵を回す音は、いつもと同じはずだった。

その日は、回ったあとに残る余韻だけが乾いて聞こえた。

高島は扉を閉め、鍵穴に指を添えたまま一秒だけ止まった。

止まった理由は説明できない。

説明できないものは、気のせいにするのが合理的だ。

合理的に生きてきたから、彼はそうした。

蛍光灯を点ける。

白い光が机の上の紙の端を、等しく露出させた。

露出すると、揃っていないものが見える。

見えると、揃えたくなる。

高島は鞄を置く前に、紙の角を揃えた。

角と角が重なる。

紙の縁が机の縁と平行になる。

ペンを一本ずつ同じ向きに並べる。

クリップは左上に戻す。

付箋は色ごとに重ね、端を同じ幅だけずらす。

順番は決まっている。

決まっていると、思考が迷子にならない。

迷子にならないことが、彼にとっての安全だった。

安全は、安心に似ている。

似ているから、区別をしなくなる。

整えることが、落ち着くためではなく、押すための準備に変わりつつある。

変わっていると気づくのは、いつも遅い。

彼は深く息を吸い、ようやく上着を椅子の背に掛けた。

呼吸が整う。

整った呼吸のまま、机の上の資料の山を見る。

都市伝説のスクリーンショット。

統計年報の写し。

鉱山名の表記ゆれを書き出した紙。

海域調査報告書の抜けたページ番号。

島の輪郭は砂のようで、掴めそうな瞬間に指の間から落ちる。

落ちる瞬間だけが、指に冷たさを残す。

その冷たさが、現実だった。

昨日、妻の職場に大学から電話が入った。

「安全確認」という言葉が、妙に丁寧だった。

丁寧な言葉は攻撃ではない。

攻撃ではないから、反撃の形を取れない。

反撃できないものが、いちばん長く残る。

高島はスクリーンショットを開き、数字の列に目を滑らせた。

怪談にしては数字が多すぎる。

多いのに、乱雑ではない。

整合が取れている。

整合が取れているから、嘘を疑うより、手順を疑う。

手順。

作業。

成果物。

“検索できない”という現象は、怖がらせるための演出ではなく、消すための仕事だ。

消すには痕跡が要る。

痕跡が要るから、完全には消さない。

薄める。

分散する。

見つけた者が確信する前に疲れるように、少しずつ遠ざける。

彼は鉛筆を取った。

ペンではない。

消せるものを選ぶのは、慎重さの癖だ。

癖は合理に似ている。

似ているから、癖で進んでいることに気づきにくい。

表記の揺れを紙に書き出す。

「金栄」。

「金榮」。

「金栄ゑ」。

旧字体が混じり、送り仮名が変わり、見慣れた音だけが残る。

音だけが残ると、検索は逃げる。

逃げるように見せると、最初から無かったことになる。

高島は矢印で繋いだ。

繋ぐ。

繋いだ瞬間、指先が少し温かくなる。

温かくなるのは、発見の熱だ。

熱は危うい。

だが熱は、成果の匂いもする。

彼は机の端を撫で、角を揃え直した。

揃えると、熱が均される。

均された熱は、正しさに見える。

正しいから、続けられる。

続けられることが、救いになる。

救いがあると、人は選んだと錯覚する。

科研費の締切まで、残りは少ない。

残りが少ないという事実は、判断の自由を奪う。

奪うのに、奪っていると感じにくい。

期限は暴力ではなく、予定として置かれているからだ。

学部運営会議の議事要旨を、彼はもう暗記していた。

来年度以降。研究室統合を検討。外部資金獲得実績が乏しい分野。名指しはない。

名指しがないから、拒否できない。

拒否できないから、自分で理由を作るしかない。

理由を作ると、選んだ気になれる。

選ぶしかなかった。

それでも、選んだ。

その二層が、胸の奥でぴたりと重なる。

学生の顔が浮かぶ。

修士に上がる予定の者。

この研究室で研究計画を組んだ者。

彼らに説明のない整理を渡したくない。

だから成果が要る。

成果があれば、守れる。

守れるという言葉は便利だ。

便利な言葉は、正義にも生活にも欲にも貼れる。

高島は統計年報の該当ページを開き、鉱石搬出量の列をなぞった。

前年と比べて急成長。

急成長のわりに設備投資の記録が鈍い。

鈍いのに産出量は維持されている。

維持されているから、どこかで丸めている。

丸めるには、丸める場所がいる。

場所。

海域。

港。

坑道。

彼は海域調査報告書の欠落箇所に付箋を貼った。

該当エリアだけが抜け落ちている。

抜け落ちた理由は書かれていない。

書かれていないことだけが、きれいに残っている。

彼は別の資料の欄外に目を移した。

小さな注記がある。

「検疫」。

「隔離」。

「臨時施設」。

断片的で、論文の柱には弱い。

弱いからこそ消されていない。

消されていないものは、消すのを諦めたのか、消す必要がないのか。

必要がないものは、既に管理の外に置かれている。

管理の外に置かれたものは、存在しないのと同じだ。

存在しないと扱える。

扱えると申請できる。

申請できると許可になる。

許可。

その語が、喉の奥に引っかかった。

彼は真実ではなく、真実に付く許可を求めている。

許可があれば誰も責めない。

責められるのは、無許可のほうだ。

その秩序は、島で行われたことと同じだ。

測られ、記録され、番号になり、理由で包まれる。

誰も命じていない。

誰も悪くない。

ただ、正しい文章がある。

高島はパソコンを立ち上げ、申請サイトの画面を開いた。

締切は赤字で表示されている。

赤字は、緊急の色だ。

緊急の色は、思考を短くする。

短くなった思考は、正しい言葉に寄り添う。

申請区分、研究計画、成果指標、共同研究。不足は自己責任として処理する。

彼は資料の束をもう一度揃えた。

角を揃える。

順番を揃える。

年代を揃える。

揃えれば、島は図になる。

図になれば、説明ができる。

説明ができれば、通せる。

通すための説明は、真実と同じ形をしている。

その形の美しさに、彼は微かな快感を覚えた。

快感を覚えたことに、すぐ気づいた。

気づいたのに、止めなかった。

止めなかった理由を、彼はこう整理した。

学生のため。

研究室のため。

家族のため。

父の介護費のため。

どれも正しい。

正しい理由が並ぶほど、人は自分を疑わなくなる。

疑わない自分が、いちばん危うい。

高島はノートの余白に一本の線を引いた。

線は、欠落した海域から、地下という語へ伸びる。

伸びた線の先に、小さく丸をつけた。

丸は、接続の印だ。

接続は、世界を閉じる。

閉じた世界は、外から見えない。

見えないものは、責められない。

責められないものは、守られる。

守られるという言葉が、また便利に働く。

彼は鉛筆を置き、指先で机の縁をなぞった。

縁は真っ直ぐで、角は揃っている。

整った視界の中で、島の輪郭がほんの少しだけ濃くなる。

濃くなるほど、次の一手が見える。

見えるほど、選ぶしかなくなる。

それでも、選んだと胸が言う。

高島は小さく笑い、笑った自分をすぐに嫌悪した。

嫌悪は、まだこちら側にいる証拠だ。

だから彼は、もう一度だけ整えた。

スマートフォンが震えた。

画面には妻の名が表示されている。

表示されていることに、彼は安堵してしまう。

安堵があると、次の異常が深く刺さる。

「今、大学からまた電話があったよ」

妻の声は落ち着いている。

落ち着いているから、内容が重い。

「担当者の方がね、『ご主人の所在確認を』って」

所在確認。

安全確認。

確認という語は、責任を帯びない。

帯びないから、拒否できない。

高島は「大丈夫」と言い、通話を切った。

切った瞬間、胸の奥の熱が少し上がった。

熱は怒りではない。

焦りだ。

焦りは期限と結びつくと、判断を“正しい方”へ寄せる。

彼は学内システムを開き、研究者ページのURLを打ち込んだ。

指が覚えている文字列だ。

覚えているものは、消えると痛い。

ページは開かず、白い画面に短い文だけが出た。

Not Found。

要求されたページは存在しません。

高島は頬の内側を噛み、痛みで現実を繋いだ。

繋いだ現実の上で、彼は再び資料を揃えた。

揃えるしかなかった。

それでも、揃えた。

そして最後に、申請サイトの「新規作成」にカーソルを合わせた。

押さない、という選択肢は残っている。

残っているのに、期限はそれを薄めていく。

整える机は、落ち着くためではない。

落ち着いた手で、押すための机だった。

成功は結果ではない。

進んでもいい、と自分に許可を出せた瞬間のことだ。

次に彼が整えるのは、資料ではなく――“手続きを通す文章”になる。


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