■第6章「選ばされた場所」:三話(知られないという救済)
十日目が過ぎ、日常という言い訳が成立した頃、記録の扱いが変わり始めた。
最初に変わったのは、名簿ではなく、呼び出しの声だった。
医療区の入口で、係が紙を見て言う。
「三区、十二番」
声は穏やかで、語尾が丁寧だった。
丁寧であるほど、拒否の形が見つからない。
十二番の男は立ち上がり、周囲の視線を受けて小さく会釈した。
誰も彼の名を呼ばない。
呼ばないのは、忘れたからではない。
呼ばなくても、手順が回るからだ。
手順が回ることは、善に見える。
善に見えることは、疑問を止める。
初めの数日は、名簿はまだ役に立っていた。
鉛筆で書かれた名前の横に、細い活字で番号が添えられるだけだった。
「混乱防止のため」
そう言われれば、うなずけた。
混乱は事故につながる。
事故は医療区を増やす。
医療区が増えると、生活が破れる。
破れないための番号なら、正しい。
二日目、名簿は更新が遅れた。
担当者が忙しい。
紙が足りない。
まとめて書き直す。
理由は、いつも足りていた。
足りている理由は、反論の余地を残さない。
三日目、名簿は更新されなかった。
掲示板の紙だけが増えた。
「記録方式の統一について」
見出しは整い、文字の大きさも揃っている。
文章は短く、句点が少ない。
読ませる文章ではなく、通す文章だった。
区画番号を主とし、氏名は必要時のみ参照する。
必要時の判断は、現場の運用に委ねる。
混乱防止のため。
必要時、という言葉は便利だった。
必要かどうかを決めるのは、こちらではないからだ。
それでも人々は安心した。
氏名が消えるわけではない。
ただ、優先順位が変わるだけだ。
優先順位の変更は、奪取ではなく整理に見える。
整理は、この地下で救いの顔をする。
呼び名は、静かに置き換わっていった。
「四区の二班」
「一班、検温」
「二区、再編」
番号は正確で、間違いがない。
間違いがないものは、責められない。
責められないものは、止められない。
子どもまで番号で呼ばれるようになった。
母親は最初だけ眉を寄せた。
だが次の瞬間、母親は自分の眉を戻した。
戻すのが早いほど、場は乱れない。
乱れないことが、子どもを守る気がした。
守るために、母親は選ぶしかなかった。
そして守るために、母親はそれでも選んだ。
名簿の空白は、少しずつ増えた。
空白は、名前が消えた跡ではない。
最初から書かれなかった欄だ。
書かれなかったものは、数に含めやすい。
数に含めやすいものは、説明しやすい。
説明しやすいものは、扱いやすい。
記録係の机には、消しゴムの粉が溜まった。
薄い鉛筆の線が一度消され、同じ場所に別の線が引かれる。
線の引き直しは、間違いの修正ではない。
整える作業だった。
整えるほど、世界は角を揃えていく。
角が揃うと、声が減る。
声が減ると、見落としが減った気になる。
見落としが減った気になれば、次の合理が来る。
係の者はいつも穏やかで、怒鳴らない。
怒鳴らないことが、暴力でない証拠になる。
暴力でないなら、抵抗は過剰に見える。
過剰に見える抵抗は、恥になる。
恥は人を黙らせる。
黙ると、手順はさらに滑らかになる。
ある晩、医療区の前で小さな出来事があった。
呼び出されたのは、三区の十三番だった。
十三番の男は立ち上がりかけて、止まった。
隣に座っていた男が小さく言う。
「それ、俺だ」
その声は弱かった。
弱い声は、拾われにくい。
拾われにくい声は、最初から無かったことになりやすい。
係は紙を見直し、ゆっくり言い直した。
「失礼、三区の十二番」
失礼、という言葉が添えられると、間違いは消える。
消えるのは、問題ではなく、責任だ。
責任が消えると、制度だけが残る。
制度だけが残ると、人は自分の方を直す。
十三番の男は座り直し、何も言わなかった。
言わないほうが、場が乱れない。
乱れないほうが、安全だ。
安全という言葉は、言わない理由にもなる。
その翌朝、寝床の端が一つ空いた。
空いた寝床の持ち主は、夜のうちに医療区へ移されたと聞かされた。
聞かされたのは番号だけだった。
誰も名前を尋ねなかった。
尋ねれば、祈りが始まる気がした。
祈りが始まれば、待つことになる。
待つことは、手順を止める。
止めることは、不適切に見える。
不適切は、この場所では危険に近い。
危険に近いものは、遠ざけられる。
遠ざけられるのは、人ではなく、感情だ。
感情が遠ざかると、生活は成立する。
成立してしまう。
成立してしまうから、戻る理由が減る。
戻る理由が減ると、戻りたい気持ちが贅沢に見える。
贅沢は、戦時下では罪に似ている。
罪に似たものは、口にできない。
口にできないものは、消える。
記録係の机の上に、新しい紙束が置かれた。
白が少し強い。
紙質が違う。
角が揃いにくい。
見出しには、こうある。
「名簿整理の簡素化について」
簡素化は、善に聞こえる。
善に聞こえる言葉は、手間を正当化する。
正当化された手間は、人の側を削る。
安全配慮の観点から。
混乱を避けるため。
必要な情報の統制のため。
記録は所定の様式に統一する。
観点、という言葉は柔らかい。
柔らかい言葉は、痛みを遅らせる。
痛みが遅れる間に、手は動く。
手が動けば、元に戻らない。
その日の夕方、名簿の最後のページが差し替えられた。
名前の欄は、印刷の時点で小さくなっていた。
番号の欄は、印刷の時点で大きくなっていた。
余白に、細い字で一行だけ追加されていた。
「死亡者は欠番として処理する」
欠番という言葉は便利だった。
便利な言葉は、死を生活の外へ押し出す。
押し出されたものは、数からも記録からも遠ざかる。
遠ざかったものは、知られなくなる。
知られなくなることが、ここでは救いになる。
穴の空いた紙が増えた。
綴じるための穴だと言われた。
穴は、揃えるためにある。
揃えるための穴は、こぼれるものを許さない。
こぼれるのはいつも、名前だ。
名前がこぼれれば、探しようがない。
探しようがなければ、心配も形を持てない。
翌日、掲示板に小さな注意書きが追加された。
「私語は控えてください」
理由は、いつも通りだった。
「情報の混線を避けるため」
混線という言葉は、外を連れてくる。
外とは、敵ではない。
調査と手続きと移送だ。
移送は、措置として書かれる。
措置は配慮の形をしている。
配慮は拒否しにくい。
拒否しにくいから、先に自分が自分を止める。
それが地下の最も静かな学習だった。
その夜、記録係の引き出しに封筒が届いた。
表には、対象者一覧、とだけ印刷されていた。
差出名はない。
印影もない。
ただ、紙は重い。
重い紙は、正しい紙に見える。
封筒の中には番号だけが並んでいた。
名前の欄は、最初から印刷されていなかった。
誰かが小さく言った。
「知られなければ、調べられない」
別の誰かが続けた。
「記録がなければ、連れていかれない」
それは祈りではない。
計算だった。
この地下で、最適解として配られた。
救済とは、知られないことだ。
その言葉が空気に馴染んだとき、誰も泣かなかった。
泣けば、生活が乱れる。
乱れは不適切だ。
不適切は危険に近い。
危険に近いものは、避ける。
避けるために、人はまた正しくなる。
その夜、医療区の呼び出しはいつも通り穏やかだった。
「三区、十二番」
十二番の男が立ち上がる。
その背中を見ながら、隣の男は初めて思った。
彼の名前を、思い出せない。
思い出そうとすると、口の中で音だけが崩れた。
崩れた音は、言葉になる前に「私語」に見えた。
だから彼は息を吸い直し、一拍だけ黙った。
次に消えるのは名簿ではない。
思い出すための“間”そのものだ。




