■第6章「選ばされた場所」:二話(地下の合理)
地下の空気は、地上より乾いていた。
乾いているのに、喉は渇かなかった。
喉が渇かないように、湿度が計算されているのだと誰かが言った。
誰かが言えば、それは説明になる。
説明は、安心になる。
安心は、質問を遅らせる。
避難して三日目、島の人々は地下という言葉を使わなくなった。
居住区、と言う。
医療区、と言う。
作業区、と言う。
言い換えは、場所の角を揃える作業だった。
角が揃えば、迷いが減る。
迷いが減れば、従うのが楽になる。
通路は広く、照明は影を作らない。
影が少ないと、人は危険を想像しにくい。
危険を想像しにくいと、危険に備えるより手順を守る。
手順を守れば、守られている気がする。
守られている気がすると、守る側を疑う理由が消える。
食事は決まった時間に配られた。
鐘ではなく、柔らかいブザー音だった。
怒らせない音は、反抗も生まない。
配膳は静かで、器の当たる音が小さい。
音が小さいと、会話も小さくなる。
会話が小さくなると、愚痴は形を失う。
味は薄いが、腹は満ちる。
満ちると、人は足りていると言う。
足りていると言えば、足りないものを数えなくて済む。
医療区では、定期の問診が行われた。
質問は短く、答えも短くてよかった。
「熱はありますか」
「ありません」
「咳はありますか」
「ありません」
短い答えは、正しい。
正しい答えは、次の手続きへ進める。
進めることが、ここでは善だった。
掲示板は、いつも更新されていた。
更新されているのに、文体は同じだった。
同じ文体は、誰が書いたかを消す。
誰が書いたかが消えれば、誰も責められない。
責められない言葉は、強い。
紙の上にはいつも、結びの句があった。
安全確保のため。念のため。効率化のため。
その三つは、祈りのように繰り返された。
祈りは反論できない。
夜の区切りは、照明で決まった。
明るさが落ちると、家族は自然に寝床へ戻った。
自然に戻れるように、通路の端に矢印が引かれている。
矢印は親切だった。
親切は拒否しにくい。
拒否しにくい親切が増えるほど、選択肢は減る。
それでも、人々は自分で選んだと思えた。
選ぶしかなかったからだ。
子どもが泣けば、誰かが言った。
「ここにいれば安全だよ」
安全という言葉は、子どもを黙らせるだけでなく、大人も黙らせた。
黙れば、気が楽になる。
楽になると、続けたくなる。
続けたいと思った瞬間、人は状況を肯定し始める。
肯定は、戻る道を細くする。
五日目。
灯りの下で、曜日が消えた。
朝も夜も同じ白さで、身体だけが順番を覚えた。
覚えた順番は、考えるより早い。
早いものは、正しい顔をする。
五日目から、呼び名が変わった。
「二区の方、検査です」
「五区の方、配給が遅れています」
名前は消えなかった。
ただ、使われなくなった。
使われないものは、無くても困らないものになる。
困らないものは、削っていいものになる。
削っていいものは、やがて削られる。
誰も抗議しなかった。
抗議は、説明を要求する。
説明を要求すれば、相手がいる前提になる。
相手がいる前提は、怖い。
怖いものより、正しい手順のほうが楽だ。
楽なほうが、ここでは生存に近かった。
地下では、理解が早い者ほど上手く回った。
掲示を読める者。
矢印に従える者。
列に並べる者。
分からない者に、こうだよと言える者。
言える者は善意を持っていた。
善意は、秩序に味方する。
秩序に味方する善意は、最も扱いやすい。
扱いやすい人間が増えるほど、手順は滑らかになる。
滑らかな手順ほど、疑いは引っかからない。
引っかからない疑いは、声にならない。
声にならない疑いは、存在しない。
ある日、掲示板の文言が変わった。
居住区の再編について。
感染リスクの低減。観測精度の向上。導線の最適化。
書かれていることは正しかった。
正しいからこそ、泣く理由が見つからなかった。
家族が分けられた。
同じ区画で眠っていた夫婦が別の区へ移された。
子どもは母のいる区へ残された。
父は作業適性の区へ移された。
適性という言葉は、優しい顔をしていた。
優しい顔の言葉ほど、人は受け入れてしまう。
受け入れてしまう自分に気づくのが、いちばん遅れる。
遅れるあいだに、配置は完了する。
完了した配置は、元に戻す理由を失う。
戻す理由が失われると、戻るという発想も薄くなる。
その夜、寝床の端で誰かが小さく言った。
「名前、いらないな」
冗談の形だった。
冗談の形は安全だ。
安全な形でしか言えないことが増えると、言葉は弱る。
弱い言葉は、正しい言葉に負ける。
正しい言葉は、掲示板にだけ残る。
地下は人を壊す場所ではなかった。
壊さなくても、生活は成立した。
成立してしまうことが、いちばん怖かった。
成立するなら、誰も止めない。
止めないなら、次の合理が来る。
次の合理は、もっと親切な顔をしている。
親切な顔は、もっと正しい。
正しいものほど、選ぶしかない。
そして、選んだと思える。
翌朝、配給の札が新しくなっていた。
札には名前を書く欄がなく、番号だけが印字されていた。
欄がないものは、書きようがない。
書きようがないものは、忘れるしかない。
忘れるしかないものを、人は慣れたと呼ぶ。
地下の合理は、慣れの速度で完成していく。
完成した合理は、出口を必要としない。
次に削られるのは、名前ではない。
名前を呼び戻すために、立ち止まる時間だった。
十日目、点呼が始まった。
点呼は怒鳴り声ではなく、呼び出しだった。
「四二一、確認です」
番号が呼ばれ、返事が返る。
返事が返れば線が引かれる。
線が引かれれば、その人は今日も存在する。
存在が線になると、人は安心する。
安心すると、線の外を想像しなくなる。
点呼表は厚い紙で、濡れに強かった。
濡れに強い紙は、長く残る。
長く残るものは、正史になる。
正史になったものは、後から否定できない。
人々は点呼に並び、並ぶことを習った。
並べば公平だと言われた。
公平は正しい。
正しいものに逆らう理由は、作りにくい。
作りにくい理由は、口に出す前に消える。
ある夜、医療区から戻らない番号があった。
「四二一、まだですか」
係の者が静かに尋ねた。
静かな尋ね方は、責めていないように聞こえる。
責めていないなら、心配する必要もないように感じる。
誰かが小声で言った。
「検査が長引いたんだろ」
その推測は、掲示板よりも強かった。
掲示板の言葉は遠い。
生活の言葉は近い。
近い言葉は、納得を早く連れてくる。
翌朝、点呼表の四二一の行に、細い二重線が引かれていた。
欠席の印ではない。
欠席の印は丸だと誰かが知っていた。
二重線は移動だと説明された。
移動先は書かれていない。
書かれていないことが、配慮に見えた。
配慮は、詮索を悪にする。
詮索が悪なら、黙るのが善になる。
善でいれば、守られる。
守られるなら、質問はいらない。
島の人々は、その論理を受け入れた。
受け入れてしまった自分に気づいた者は、目を逸らした。
目を逸らせば、生活は続く。
続く生活は、正しさを補強する。
戻らない行が、点呼表の端で増えていった。
その日の掲示板に、新しい文が貼られた。
情報の取り扱いについて。
うわさを避けること。
不確かな情報を広めないこと。
安全確保のため。
最後の句が付くと、命令は配慮になる。
配慮になれば、従うのは自発になる。
自発だと思えば、怖くない。
怖くないなら、ここはまだ避難だ。
避難だと思える限り、人は深く降りていける。
夜、誰かが配給の札を落とした。
拾った者が札を返そうとして、名前を書く欄がないことを改めて見た。
返す先は、番号でしか指せない。
番号でしか指せない人間は、番号でしか守れない。
守ることが番号で行われるなら、失うことも番号で行われる。
その理解が、ゆっくり胸に沈んだ。
沈んでも、叫びにはならなかった。
叫べば混乱になる。
混乱は事故につながる。
事故は皆を危険にする。
危険にするのは悪だ。
悪になりたくないから、黙る。
黙ることが、また正しさになる。
そして正しさは、いつも優しく説明される。
高島は後年、この部分に赤線を引いている。
地下の合理は、暴力ではなく礼儀で完成すると。
礼儀は乱さない。
乱さない者が残る。
残った者の沈黙が、次の手順の材料になる。
翌日、点呼表の余白に小さく追記があった。
点呼時の私語を控えること。
その一文が増えただけで、地下はさらに静かになった。
静かになったぶん、番号が呼ばれる音だけがよく響いた。
よく響く音は、正しい音に聞こえる。
正しい音に慣れた耳は、名前の響きを忘れる。
忘れたことに気づくのは、いつも最後だ。
そして最後は、たいてい説明されない。
説明されないものに辿り着くために、地下は今日も丁寧に説明していた。
その夜、掲示板に初めて期間の欄が現れた。
欄は空白のまま、線だけが引かれていた。
――空白は、待つための余白ではなかった。
――待つ側を、終わらせるための線だった。




