■第1章「違和感」:二話(数字のある怪談)
妻の職場に、大学から電話が入った。
妻の声は落ち着いていた。
落ち着いていることが、逆に現実だった。
「連絡が取れなくて」
その一文が、妙に現実的な重さで高島の胸に残っていた。
翌朝、高島はまだ暗いうちに研究室へ向かった。
冬の空気は乾いていて、歩くたびに息が白く裂けた。
校門をくぐると、構内の静けさが強調される。
人影が少ないだけで、世界はいつもより広く感じられた。
広い空間は、欠けを見つけやすい。
研究棟の廊下の掲示板を横目に通り過ぎ、鍵を回す。
いつもと同じ動作だ。
いつもと同じ音だ。
――なのに、その日は鍵の回る抵抗が、ほんのわずかに違う気がした。
気のせいだ、と高島は思う。
気のせいだと判断できる自分を、まだ信用できた。
信用できる範囲に収めれば、今日も働ける。
机に鞄を置く。
上着を椅子に掛ける。
ペンの向きを揃える。
紙の端を揃える。
揃える動作が終わると、呼吸が整った。
整った呼吸は、問題の輪郭をくっきりさせる。
輪郭がくっきりすると、見ないふりが難しくなる。
揃え終えてから、スマートフォンを取り出した。
学生が見せたスクリーンショット。
昨夜、家で何度も見返した画像だ。
画面に残された文字列は断片的で、投稿者の意図も文脈も失われている。
それでも、違和感だけは消えなかった。
消えない違和感は、作業の対象になる。
怪談にしては、数字が多すぎる。
雰囲気づくりの飾りではない。
産出量の推移。
労働者数。
坑道の延長距離。
実在の鉱山資料を参照しなければ出てこない種類の値だ。
数字は、物語を一段だけ現実に引き寄せる。
高島は書庫の奥へ行き、統計年報の束を引きずり出した。
背表紙の色あせた冊子が、机の上に塔のように積み上がる。
ページをめくるたび、紙の乾いた匂いが立ち上る。
乾いた匂いは、嘘よりも手続きに近い。
大正十一年。
島の金鉱は確かに急成長している。
産出量は前年の二倍近く。
労働者数も比例して増加。
スクリーンショットの列と、同じ方向に伸びている。
数字は嘘をつかない――そう言い切る人間を高島は嫌っていた。
数字は嘘をつかないのではない。
嘘をつかせるのが簡単なのだ。
だが、ここに並ぶ数字は、簡単には嘘をつかせられない種類だった。
嘘をつかせるには、嘘のための整合を膨大に積まなければならない。
そしてスクリーンショットの数字は、整合が取れている。
取れすぎている。
整うほど、人は疑う手間を省ける。
高島は年報の該当ページを開き、鉛筆で列をなぞった。
次の年。
設備投資の記録が急に鈍る。
産出量は維持されているのに、坑道拡張の報告がない。
本来なら歪みが出る。
掘れば掘るほど坑道は伸びる。
伸びるほど費用が増える。
その論理を、数字は裏切らない。
――裏切らないはずだ。
「……合っている」
高島は呟いた。
辻褄は完璧に合っている。
問題は、その“合い方”だった。
合うべきでないものまで、合っている。
鉱山名の表記が、資料ごとに微妙に異なる。
同一の鉱山であるはずなのに、漢字が一字だけ違う。
送り仮名が変わる。
旧字体が混じる。
一つだけなら誤記だ。
二つなら揺れだ。
三つ以上なら、揺れでは片づけにくい。
片づけにくいものほど、人は片づけたくなる。
片づけるための言葉が、頭の中にいくつも並ぶ。
誤植。
旧字体。
地方の呼称。
記録の癖。
どれも合理的だ。
合理的な説明は、いつも正しい。
正しい説明が揃うほど、疑う理由だけが「非合理」になる。
非合理は、危険の顔をして追い出される。
追い出されると、自由も一緒に消える。
高島は鉛筆で表記の違いを紙に書き出した。
矢印で繋ぎ、同一の対象として束ねる。
束ねた瞬間、束ねたこと自体が、妙に“こちら側”の行為に感じられた。
合わせてしまえば、線になる。
線になれば、説明できる。
説明できれば、正しく扱える。
正しく扱えるものだけが、制度の中に残れる。
――残れる。
その言葉が、自分の生活の都合と結びついた瞬間、舌の裏が冷えた。
昨夜、担当者欄から自分の名前が消えていたことを思い出す。
高島は学内システムを開いた。
ログインする。
講義一覧。
スクロール。
名前は戻っていなかった。
講義は存在している。
内容も、これまで通り。
ただ担当者欄だけが空白だ。
空白は、間違いではなく形式に見える。
高島は画面から目を離し、机の上の紙を揃え直した。
紙の角が揃っていると、視界が落ち着く。
落ち着いた視界は、逆に異常を際立たせる。
再び画面を見る。
担当者欄の空白は、資料の表記揺れと同じ種類の空白だった。
完全に消えていない。
ただ、接続だけが断たれている。
断たれているのに、誰も困っていない顔をしている。
研究室内の時計を見る。
午前九時。
事務課が動く時間だ。
高島はメールを打った。
件名は簡潔に「講義担当者表示について」。
本文は丁寧に、必要な情報だけを添えた。
敬語は、摩擦を減らすための道具だ。
摩擦が減れば、相手は正しく動ける。
正しく動けば、事務は滑らかに回る。
滑らかに回るほど、止める手がなくなる。
送信ボタンを押し、送信履歴を確認する。
――残っている。
残っていることが、妙に心強かった。
証拠がある。
記録がある。
だがそう思った瞬間、高島は自分が何にしがみついているのかを理解してしまった。
記録があることに安心している時点で、すでに“消える側”に片足を入れている。
消える側に入っているから、記録が必要になる。
必要になった瞬間から、選択は減る。
減った選択の中で、人は選ぶ。
選ぶというより、選ぶしかない。
高島はスクリーンショットと年報を見比べ、数字の差を拾う。
差は小さい。
誤差として片付けられる程度だ。
だが誤差はランダムではなく、一定方向に寄っている。
偶然なら散る。
寄るのなら、寄せる力がある。
寄せる力は、手を汚さない。
手を汚さない力ほど、長く残る。
これは怪談ではない。
怪談の形を借りて、現実の型を運んでくる。
型は、作業の手触りを隠す。
隠したまま、人を動かす。
高島は、思考の中で一つの言葉に触れかけた。
削除ではない。
捏造でもない。
何かを「無い」にするより、何かを「辿れない」にする方が簡単だ。
辿れないものは、人の目の中で、勝手に無かったことになる。
そのやり方は、どこか――編集に似ている。
似ている、という程度で止めなければならない、と高島は思った。
言い切った瞬間、世界が確定してしまう。
確定すれば、責任の位置も確定する。
責任を置いた瞬間、自分はその線の上に立つ。
立てば、降りる手間が増える。
手間が増えると、生活が崩れる。
崩れることを、高島は恐れている。
恐れていること自体が、すでに“正しい側”の人間の姿だった。
昼前、スマートフォンが震えた。
妻からのメッセージだった。
「さっきね、大学から電話があったの。『安全確認』って言ってた。あなた、何かあった?」
高島は返信欄に指を置いた。
言葉が浮かばない。
「何もない」と書けば嘘になる。
「何かある」と書けば接続が確定する。
確定すれば、説明を求められる。
説明を求められれば、こちらは「理解できる形」に整えさせられる。
整えさせられるのは、相手のためではない。
制度のためだ。
制度は、人のための顔をしている。
顔をしているだけで、人を選別する。
高島は一文だけ打った。
「大丈夫だよ。念のため、ってやつ」
送信しようとして、指が止まった。
その一文が、どこへ届くのか分からなくなったからだ。
届く先が分からないのに、送るしかない。
送らなければ、連絡が取れない側になる。
連絡が取れない側になった瞬間、相手は正しく動く。
正しく動く相手を止める手段は、こちらには少ない。
そのとき、研究室のパソコンの画面がふっと暗転した。
スリープではない。
一瞬だけ、電源が落ちたような沈黙。
高島は立ち上がり、電源ボタンに手を伸ばし――止めた。
自分の動作が、どこかで観測されている気がした。
ばかげている、と頭は言う。
だが、ばかげていると切り捨てるには、現実が似すぎている。
画面が戻る。
さっきまで開いていた学内システム。
メールの送信履歴。
資料の一覧。
高島は無意識に再読み込みを押した。
更新。
更新。
更新。
そのたびにページは同じ顔で戻ってくる。
同じ顔で戻ってくることが、異常の証明になる。
異常を証明する行為が、すでに日課に近い。
ふと、大学公式サイトの研究者ページを開いてみた。
自分の業績一覧。
論文タイトル。
掲載誌。
研究分野。
見慣れた文字列が並ぶ。
高島は一度だけ、安心しかけた。
まだ残っている。
まだ接続されている。
残っていること自体が、危うい安心だと知りながら。
高島は更新ボタンの上にカーソルを合わせた。
押すべきではない。
だが押さなければ確認できない。
確認できないものは、存在しないのと同じになる。
指がマウスを押す。
画面が切り替わった。
Not Found。
要求されたページは存在しません。
表示は丁寧で、無機質で、理由がない。
理由がないことが、現代の標準でもある。
高島は息を吐いた。
吐いた息は白くならない。
白くならないのに、冷たかった。
冷たいのは画面ではない。
画面の向こうに「誰もいない」感じだった。
誰もいないのに、こちらだけが手続きを始めている。
手続きは、始めた者の側に責任を置く。
高島は妻のメッセージに戻った。
返信欄にある一文。
「念のため、ってやつ」
念のため。
便利な言葉だ。
便利な言葉ほど、後から刃になる。
高島は送信を押した。
押した瞬間、少しだけ肩が軽くなる。
軽くなるのは、解決したからではない。
選ぶしかないものを、選んだと思えたからだ。
その直後、スマートフォンの画面が一瞬だけ揺れた。
連絡先が開く。
一覧の中で、妻の名前だけが――一拍、空白になる。
空白はすぐに埋まった。
埋まったからこそ、さっきの空白が本物だったと分かる。
消えたのは名前ではない。
“妻へ接続する道”が、試しに切られた。
試しに、という言い方は正しい。
正しい言い方は、誰も責めない。
誰も責めないまま、次の切断が準備される。
高島は机の上の紙を揃えた。
揃えることで、呼吸を整える。
整えることで、正しく見える。
正しく見えるうちは、まだ自由だと錯覚できる。
自由だと錯覚できるうちに、人は選ぶ。
選ぶしかない選択を、それでも選んだのだと、後から言えるように。
その日の午後、高島は島の数字をもう一度だけ書き写した。
書き写すのは検証のためだ。
検証は学者の正しさだ。
正しさは、誰にも止められない。
止められない正しさだけが、静かに人を追い詰める。
そして高島は、追い詰められているのに、まだ“自分で進んでいる”と思っていた。
次に消えるのは、島の名前か。
それとも――自分の名前か。




