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■第6章「選ばされた場所」:一話(避難)

異変は、はっきりした形では現れなかった。

島の朝はいつも通りに汽笛で始まり、坑口へ向かう足音が潮の匂いと混じった。

だからこそ、最初の違和感は生活の中に溶ける程度だった。

数人が、体調を崩した。

高熱が出た者もいれば、喉の奥が焼けるように痛む者もいた。

倦怠感だけが続き、仕事の手順だけが遅れる者もいた。

医師は首を傾げた。

聴診器の先を動かし、検査の紙を増やした。

増やせば原因に近づくはずだった。

だが、紙が増えるほど、原因は形を持たなくなった。

同じ頃、海で獲れた魚の一部が廃棄された。

市場に並ぶ前に、桶ごと浜へ戻され、砂の上でひっくり返された。

基準値を超えている可能性がある。

そう説明された。

数値は示された。

赤い線が引かれ、比較表も付いていた。

数字が出ると、人は理解した気になれる。

だが、理由は語られなかった。

「念のためです」

その一言で、話は終わった。

終わらせ方が丁寧であるほど、続きを聞きにくい。

島全体に、通達が出た。

役場の掲示板に貼られた紙は、いつものものと大きくは違わない。

紙の角は揃い、行間は均一で、句読点の位置も整っている。

読ませる文章ではなく、通す文章だった。

だが、文末に押された印影だけが、島の誰も見慣れない形をしていた。

角ばった朱色。

番号だけの差出名。

県でも、軍でもない。

「臨時衛生観測」

そう読める文字が、かすれて残っている。

誰かが言った。

「戦争中は、こういうのがある」

その言葉は説明ではなく、安心の置き場所だった。

疑うより、理解したほうが楽だった。

理解は疲れを減らす。

疲れが減れば働ける。

働ければ生活は守れる。

守れる、と感じた瞬間に、人は選ぶしかなくなる。

通達の内容は、簡潔だった。

地下施設への一時的な避難。

理由は、同じだ。

「安全のため」

安全という言葉が先に来ると、危険の形は誰も見なくなる。

避難という言葉よりも先に、文面には別の語が並んでいた。

区画。

導線。

採取。

衛生。

生活のための指示ではない。

観測のための手順だった。

だが、島民はそこまで読まなかった。

読む必要がないと思えた。

思えるように作られていた。

それ自体が、すでに運用だった。

地下施設は、以前から存在していた。

鉱山の延長として整備され、換気も、貯蔵も、居住も可能だった。

坑道の脇に枝のように伸びた通路の先に、広い空間があることを島の者は知っていた。

温度管理。照明。寝床。食料。水。医療用具。

想定される期間を考えれば、十分すぎる設備だった。

十分すぎるものは、準備ではなく予定に見える。

だが、誰もその言い方はしなかった。

反対する者はいなかった。

子どもや老人のことを思えば、選択肢は一つしかない。

選択肢が一つしかない状態を、人は合理的と呼ぶ。

合理的は正しい。

正しいものには、反対しにくい。

役場の者は声を張らずに言った。

「落ち着くまで、少しの間です」

その言葉は、誰にとっても納得のいくものだった。

納得は、恐怖の代わりに働く。

避難は、整然と進んだ。

荷物は制限されたが、理由は丁寧に説明された。

食料は三日分まで。刃物は持ち込み不可。薬は申告制。

混乱を避けるため。事故を防ぐため。衛生を保つため。

理由が三つ並ぶと、人は一つ目を忘れ、二つ目で頷き、三つ目で黙る。

誰も怒らなかった。

誰も叫ばなかった。

怒るほどの相手が見えないからだ。

掲示板の紙には差出名がなく、手順だけがある。

手順は人の顔を持たない。

顔のないものは責められない。

島民は、自分の足で地下へ降りた。

背中を押された者はいない。

押されていないからこそ、降りた事実が重くなる。

階段は広く、照明は明るかった。

明るさは安心の形をしている。

手すりも新しく磨かれている。

金属が冷たく、指の油を正しく受け取る。

まるで、人が降りてくることを最初から想定していたかのようだった。

列の先頭では、係の者が札を渡した。

札には区画番号が書かれていた。

番号は間違えにくい。

間違えにくいものは安全だ。

安全は正しい。

正しいから、札は冗談にもなる。

「俺、四番だってさ」

笑いが起きる。

笑いが起きるなら、これは避難ではなく手続きだ。

地下に着くと、人々は区画ごとに案内された。

居住区。

医療区。

作業区。

隔離区。

隔離区という文字だけが、他より少し小さかった。

小さい文字は目に入りにくい。

目に入りにくいものは、考えなくていいものになる。

動線は明確で、迷うことはない。

迷わないことは楽だ。

楽であることは、良いことだ。

良いことは続く。

続くと、慣れる。

慣れたものは、元からそうだった顔をする。

「ここにいれば、安全です」

その言葉が、何度も繰り返された。

安全。

その響きは、思考を止めるのに十分だった。

地下での生活は、思ったよりも快適だった。

温度は一定で、湿度も整っている。

空気は循環し、灯りは夜更けまで落ちない。

「地上より、楽だな」

誰かがそう言い、周囲が笑った。

笑えた、という事実が、人々を安心させた。

安心は便利だった。

便利なものほど、早く使う癖がつく。

癖がつくと、疑問は遅れる。

疑問が遅れると、期限だけが先に来る。

だが、地上に戻る期限は、どこにも書かれていなかった。

そのことに気づいた者もいた。

だが、口に出さなかった。

期限を聞くことは、疑うことに近い。

疑うことは、この場では不適切だった。

不適切だと感じる自分の感覚のほうが、怖かった。

夜、配られる紙が増えた。

体温記録表。

作業報告。

食事摂取量。

咳の有無。

紙が増えるほど、生活は整う。

整うほど、外へ戻る必要が薄くなる。

薄くなると、戻るという動詞が細くなる。

細くなると、切れる。

封鎖が確定する直前に、高島は後年この束を読み返していた。

準備が、良すぎる。

準備が良いのは、善意にも見える。

善意に見えるほど、疑えない。

疑えないまま進むと、選ぶしかなかったが真実になる。

そして真実になった瞬間、人はそれでも選んだことにされる。

地下へ降りる最後の階段で、島の灯りが、ひとつ、消えた。

誰も振り返らなかった。

振り返れば、地上を思い出す。

思い出せば、今が仮になる。

仮になれば、手続きが止まる。

止まれば、誰かが困る。

困るのは子どもと老人だ。

だから振り返らない。

その判断は、その時点では、もっとも合理的で、もっとも正しかった。

正しい選択ほど、後から取り返せない。

翌朝、地下の掲示板に新しい紙が貼られていた。

「出入口の封鎖について」

理由は、やはり同じだった。

安全確保のため。

紙の上の封鎖という字は、避難よりも硬かった。

硬い字は、読む前に喉を締める。

締まった喉は、質問を作れない。

役場の係が通路の先で言った。

「外は、今は危ないそうです」

危ない、もまた万能だった。

万能な言葉は具体を消し、具体が消えると比較ができなくなる。

比較ができないと、戻るという判断ができない。

居住区では、母親が子どもの髪を撫でながら囁いた。

「すぐ戻れるよ」

子どもは頷いた。

頷きは理解ではなく、受け入れの練習だった。

医療区の前で、係の者が手袋を替える音がした。

薄いゴムが擦れ、乾いた音が響く。

音は小さいのに、耳に残る。

残る音は、ここが生活ではなく処置の場所であることを思い出させる。

誰かが笑いを作ろうとして言った。

「外に出られないなら、芝居はここでやるか」

笑いは起きた。

だが笑いの後に、沈黙が一拍だけ長く残った。

芝居は灯りの上で成立する。

灯りは地上にある。

その簡単な事実が、誰の口にも出なかった。

出なかった理由は、正しいからだ。

正しいから、言えない。

言えないから、正しいまま残る。

高島はその一拍の沈黙を、別の紙の余白に書き留めていた。

封鎖の文字の横に、薄い鉛筆で。

そして気づく。

この日から島は、出るのではなく、出してもらう場所になったのだと。

掲示板の最下段に、小さく印字があった。

次回掲示 未定。

――選ぶしかなかった。

――それでも、降りた。


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