■幕間(現代)「触れてはいけない計算」
高島は、帳簿の写しを机の上に広げていた。
原本の所在は、正規の欄としては空白だった。
所在欄には「移管」とだけあり、移管先の欄が空いている。
空白は、紛失より冷たい。
紛失は失敗だが、空白は手順だ。
残っているのは、断片だった。
数字。
欄外の注記。
途切れた集計。
紙の端に、朱の印が一つだけ押されている。
達。
その字だけが、綺麗に残っていた。
高島は紙の角を揃えた。
角を合わせ、重ね、端を揃える。
癖だった。
揃っていないものがあると、思考が乱れる。
乱れた思考は、判断を誤らせる。
研究者として避けたい状態だった。
だから揃える。
揃えれば、世界が整う気がする。
整う気がすることが、危ういと知っていても。
机の上には、別の紙も置かれている。
研究費申請の要項だった。
締切は赤字で、日付だけがはっきりしている。
赤字は急かさない。
急かさないまま、過ぎていく。
高島は鉛筆を手に取った。
ペンではない。
消せるものを選ぶ。
潔白のためではなかった。
計算は、ときどき間違う。
間違いを修正できることが、先に安心になる。
安心が先に来ると、罪は遅れてくる。
まず、当時の産出量。
記録が止まった年までの推移。
次に、搬出量。
港湾記録。
運搬船の入出港。
荷札の数量。
その途中に、軍需輸送の欠落がある。
欠落は空白ではない。
別の項目が増えて、全体の見た目は整っている。
整っているから、欠けが目立たない。
高島は差分を取った。
差分が、残った。
残る、という言葉が、頭の中でゆっくりと意味を変えた。
残るのは証拠だ。
残るのは価値だ。
残るのは、まだ触れられるということだ。
「……あるな」
声に出してから、それが独り言だと気づいた。
言葉にした瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなる。
重くなる理由は説明できた。
夜更け。
暖房の止まった研究室。
蛍光灯の白さ。
説明できることは安心だ。
安心は、次の計算を呼ぶ。
島の地下に、金がある。
未採掘分。
持ち出されていない量。
そして、持ち出されていない理由があるはずだ。
理由があるなら、手順がある。
手順があるなら、申請がある。
申請があるなら、許可がある。
許可があれば、誰も悪くならない。
高島は無意識に計算を進めていた。
現在の相場。
精錬コスト。
輸送費。
汚染を前提にした減価。
鉛筆が「汚染」の字で、一度だけ躊躇した。
高島は電卓を出さなかった。
手元の表計算ソフトを開いた。
新規シートの名前だけが先に決まる。
「暫定」。
暫定という語尾は、責任を遅らせる。
高島は小数点以下を切り捨てた。
切り捨ては誤差の顔をする。
誤差は罪ではない。
罪でないものなら、並べられる。
並べた数値は桁を揃え、セルの幅を揃え、罫線を引く。
罫線の中では、汚染も金も同じ「項目」になる。
項目になった瞬間、触れていいものの側に寄る。
保存先のフォルダも、指が勝手に選んだ。
相場、精錬、輸送、減価。
四つを並べると式が整う。
整った式は結論を先に連れてくる。
結論が先に来ると、手は追いつく。
躊躇は線の揺れになる。
高島は揺れを嫌い、同じ字を薄くなぞった。
揃えることで、判断が正しくなる気がした。
正しくなる気がするだけで、十分だった。
指が止まる。
これは研究ではない。
論文に書ける計算ではない。
学会で発表できるものでもない。
それでも数字は並ぶ。
並べば、揃う。
揃えば、意味を持つ。
意味を持つと、使える。
使えるものは、捨てにくい。
高島は紙の角を揃え直した。
守りたいものが頭に浮かんだ。
研究室。
学生。
父の介護費。
子どもの進学。
生活。
正義ではない。
使命でもない。
生活だ。
生活を守る算段は、いつから卑しいものになるのか。
高島は自分に問いかけなかった。
問いは答えを呼ぶ。
答えが出れば、次は行動になる。
行動になれば、戻れない。
戻れないのは怖い。
怖いのに、怖いと言えない。
怖いと言えないのは、理由が正しいからだ。
もし――。
もし、この金を「管理できる」としたら。
危険物ではなく、管理対象として。
隔離。
封じ込め。
測定。
監督。
報告。
どれも、島で見た言葉だった。
測られ。
記録され。
管理された。
誰も命じていない。
誰も悪くない。
ただ、正しかった。
高島はそこで気づいた。
自分が欲しいのは真実ではない。
真実に付く、許可だ。
許可があれば、誰も責めない。
責められるのは無許可のほうだ。
無許可は感情になる。
許可は手続きになる。
手続きは無色だ。
無色なものほど、人は安心して握れる。
高島は計算式の端を指で押さえた。
紙がわずかに浮く。
浮いた角を押さえ直す。
揃えれば落ち着く。
落ち着けば考えられる。
考えられるということは、進められるということだ。
机の端に、妻からのメモが挟まっていた。
「今月、父の施設費が上がるって」
紙は短い。
短い紙ほど、生活の刃になる。
高島はその紙も揃え、帳簿の写しの下に重ねた。
重ねれば、同じ厚みになる。
同じ厚みになれば、同じ重さに見える。
同じ重さに見えるから、同じように扱える気がする。
扱える気がすることが、最も危険だと知っていながら。
パソコンの画面には、研究費申請の締切が表示されていた。
赤字だ。
期限は静かだ。
急かさない。
ただ、過ぎる。
高島は引き出しを開け、帳簿の写しをしまった。
鍵は、かけなかった。
触れられる距離に置く。
それだけで、十分だった。
十分だと思えることが、すでに選択だ。
――救済とは、知られないことだ。
島の地下で生まれた言葉が、ふと頭をよぎった。
高島はそれを否定しなかった。
同時に肯定もしなかった。
ただ、「知られないまま、使う」という第三の可能性が、確かにあることを理解してしまった。
理解できてしまうことが、最悪だ。
理解できるものは、正しく見える。
正しく見えるものは、反論を奪う。
高島は引き出しの前に座り直した。
指先が勝手に、鍵穴の位置を探す。
探して、止まる。
止まる理由は一つだった。
まだ、鍵を掛けたくない。
鍵を掛けた瞬間、これは「隠す」になる。
隠すは悪意になる。
悪意になれば、責められる。
責められないためには、開けておく。
開けておけば、いつでも撤回できると思える。
撤回できると思えることが、進める理由になる。
高島は深く息を吸った。
息は白くならない。
研究室は暖かい。
暖かいのは、誰かがこの部屋をまだ「必要」としている証拠だ。
必要とされている限り、人は自分を正しい側に置ける。
高島は引き出しの中の帳簿に手を伸ばし――触れなかった。
触れる前に、机の上の要項をもう一度読んだ。
「安全配慮の観点から」
その一文は、完璧だった。
完璧であるほど、背中が冷える。
高島はフォルダを開いた。
昨年の申請書式を複製し、ファイル名だけを変えた。
日付が先に入り、件名の候補が自動で並ぶ。
並んだ候補のうち一つが、いちばん整って見えた。
高島はメールの下書きを開いた。
宛先はまだ空白だ。
件名だけが先に決まる。
「資料取扱いに関する安全配慮について」
句読点の位置まで、自然に整う。
本文も、すぐに組み上がる。
背景、目的、方法。
リスクと対策。
責任者と添付。
丁寧で、敵意がない。
敵意がないから、どこにも当たらない。
当たらないまま、通る。
通ったものは、戻らない。
下書きの最後に、定型文が自動で入る。
「ご確認のほど、よろしくお願いいたします」
よろしく、という言葉が、許可の別名に見えた。
送信ボタンの青が、やけに鮮やかだった。
押せば終わる。
押さなければ始まらない。
その二択が、最も合理的な形をしていた。
高島は送信ボタンの上で、指を止めた。
止めたのは、良心のためではない。
止めたままでも、文面が整い続けるからだ。
――その形を作れるのは、いつも「正しい人」だ。
正しいまま、送信できてしまう。




