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■第5章「説明のある不安」:三話(責任の所在)

会議の招集は、前日の夕方に届いた。

件名は穏やかだった。

「研究活動に関する共有とお願い」。

共有。

お願い。

どちらも攻撃ではない。

攻撃ではないから、欠席しづらい。

高島は出席した。

出席することが、まだ自分がこちら側にいる証明になる気がした。

会議室には十人ほどがいた。

顔見知りもいれば、名刺を見ても思い出せない者もいる。

思い出せないのは、相手が悪いのではない。

自分の記憶が追いついていないだけだ。

追いつけない速度で、運用は変わる。

担当者が前に立った。

穏やかな声だった。

整った資料だった。

端の揃った印刷物だった。

影の少ない光だった。

ここには敵がいない。

だからこそ、逃げ場もない。

議題は三つだった。

外部照会対応の統一。

倫理審査の追加項目。

学内情報の取り扱い。

どれも正しかった。

正しいものが三つ重なるとき、選ぶ余地はなくなる。

担当者は言った。

「皆さまの研究環境を守るためです」。

守る。

守ると言われると、反対は壊す側になる。

壊す側になりたい者はいない。

高島もいない。

説明の途中で、質問が出た。

若い講師が手を挙げた。

「具体的に、何が危険なんですか」。

危険という言葉は具体を要求する。

具体は責任を要求する。

担当者は笑わず、怒らず、丁寧に答えた。

「個別の案件についてはお答えできかねます」。

「ただ、昨今の状況を踏まえ」。

「念のため」。

念のためが出た瞬間、会議室の空気が緩んだ。

緩むのは、結論が出たからだ。

結論は「分からないまま従う」だった。

分からないまま従うのは怖い。

だが、怖さより先に合理が来る。

分からないものに触れない。

触れなければ事故が起きない。

事故が起きなければ責任がない。

責任がないのは楽だ。

楽であることは、良いことに見える。

担当者は続けた。

「手続きが増えることで、皆さまを守れます」。

守れると言われると、人は守られたくなる。

守られたいと思う自分がいる限り、反論は感情に落ちる。

感情に落ちた反論は、議事録に残らない。

残らない反論は、存在しないのと同じになる。

高島は議事録という言葉を思い出した。

島の帳面。

割当表。

区画図。

図になったものは現実より強い。

現実が強いと思っていた自分の方が、遅れていた。

会議の最後に、確認書が回ってきた。

紙は白かった。

白が少し強かった。

紙質が違った。

角が揃えにくかった。

見出しはこうだった。

「研究情報取扱いに関する確認」。

内容は短かった。

遵守します。

遵守します。

遵守します。

チェック欄が並んでいた。

チェック欄は答えを誘導する。

誘導される答えは、考える必要がない。

考える必要がないものは楽だ。

楽であるほど、深く縛る。

署名欄に、所属と氏名を書く。

氏名。

高島はペンを握り、止まった。

氏名を書くのは、存在を固定する行為だ。

固定された存在は、責任を持つ。

責任を持つ存在は、運用の部品になる。

部品になるのが嫌だった。

嫌なのに、理解できてしまう。

署名がなければ、研究室は守れない。

守れなければ、学生が散る。

散れば、父の介護も、妻の生活も、崩れる。

崩れる理由を、誰も背負わない。

背負わない世界で、背負うのは自分だけだ。

高島はペン先を紙に置いた。

名前を書く。

一画目。

二画目。

自分の名前の角が、いつもより揃っていた。

揃えたのは癖だった。

癖は疲れない。

疲れないものほど、長く続く。

署名を終えると、胸が少し軽くなった。

軽くなるのは、終わったからだ。

終わったという感覚が、逃げ場になる。

逃げ場がある限り、人はまだ生きられる。

会議室を出ると、廊下の掲示板が貼り替えられていた。

紙は一枚増えただけだった。

「照会は窓口へ」。

「判断は担当へ」。

「個別の回答はいたしかねます」。

窓口。

担当。

個別。

主語がない。

主語がないまま、機能は回る。

回る機能は強い。

強いものは、誰も止められない。

研究室に戻ると、学生が待っていた。

「先生、図書館の特別資料室、申請しないと入れなくなったみたいです」。

申請。

申請は手続きだ。

手続きは正しい。

正しいものは、人を黙らせる。

高島は言った。

「じゃあ、申請しよう」。

その返事が、あまりに自然で、自分で怖くなった。

学生はほっとした顔をした。

ほっとさせたことが、さらに怖かった。

夕方、妻からメッセージが来た。

「今日は会議どうだった?」。

高島は短く返した。

「大丈夫」。

大丈夫という言葉は万能だ。

万能な言葉は具体を消す。

具体が消えると、責任の所在も消える。

責任の所在が消えた世界で、彼だけが署名を残している。

残したのは、選ぶしかなかったからだと思いたかった。

夜、机の上で確認書の控えを揃えた。

角を揃える。

揃えた瞬間、紙はただの紙になる。

ただの紙になれば、怖さは薄まる。

薄まった怖さの隙間に、別のものが入り込む。

次の手続き。

次の確認。

次のお願い。

高島はパソコンを開き、大学の研究者ページを検索した。

自分の名前が候補に出た。

出ることに安心しかけて、すぐに気づいた。

安心できるように作られている。

作られている安心は、壊すときに便利だ。

画面の端に、小さな通知が出た。

「研究情報取扱い確認:未提出者一覧」。

一覧。

未提出者。

高島は、一覧を開かなかった。

開けば、誰が残っているかが分かる。

分かれば、責任が生まれる。

責任が生まれれば、次は選べなくなる。

高島は画面を閉じ、机の角を揃えた。

揃えながら思った。

責任の所在は、誰かの胸ではなく、紙の上に移される。

紙の上に移された責任は、薄い。

薄いから、誰も痛まない。

痛まないまま、世界だけが決まる。

その夜、学部長から個別に呼ばれた。

呼び方は柔らかかった。

「少し相談がある」。

相談は命令より重い。

断ると関係が壊れるからだ。

学部長室は暖かかった。

湯気の立つ茶が出た。

茶が出ると、人は話を聞く姿勢になる。

学部長は言った。

「君、文章がうまいだろ。

例の件、対外向けの案内文を整えてくれないか」。

整える。

その動詞が、胸に刺さった。

島の割当表を整える男。

写真の角を揃える自分。

整える手つきは、いつも正しい顔をする。

学部長は続けた。

「敵意はないんだ。

余計な火種を作りたくないだけで」。

火種。

軽い比喩だ。

軽い比喩ほど、実際の火傷は深い。

高島は頷いた。

頷くのは、理解できるからだ。

理解できてしまうから、断れない。

研究費のことが頭をよぎった。

学生の進路がよぎった。

父の施設費がよぎった。

よぎるものが多いほど、選択肢は減る。

研究室に戻り、案内文の下書きを開いた。

テンプレがすでにあった。

正しい語尾が並んでいた。

正しい句読点が並んでいた。

正しい空白が並んでいた。

「安全配慮の観点から」。

「誤解を招く可能性を低減するため」。

「個別の回答はいたしかねます」。

高島は句読点を整え、語尾の揺れを揃えた。

揃えると、文章は滑らかになる。

滑らかな文章は、読んだ者の心を摩耗させない。

摩耗しないまま、読む者は従う。

従うのは、守られたいからだ。

守られたい気持ちは、いつも正しい顔をする。

高島は最後の一文を迷った。

「ご理解とご協力をお願いいたします」。

お願い。

またお願いだ。

高島は、その一文を残した。

残したのは、運用として正しいからだ。

正しい運用は、大学を守る。

守られた大学の中で、自分も生き延びる。

生き延びるために、彼は整える側に立った。

夕方、下書きを送ると、すぐに返事が来た。

「完璧です」。

完璧。

その言葉は褒め言葉だ。

褒め言葉は人を動かす。

動かされた自分が、怖い。

夜、高島はノートを開き、数字を書き始めた。

研究費。

介護費。

期限。

提出物。

未提出者。

列を揃える。

桁を揃える。

揃えれば、判断ができる。

判断ができれば、選べる。

選べると思い込める。

だが、数字を揃えた瞬間に、彼は理解した。

これは選択のためではない。

納得のための計算だ。

納得できる形に整えれば、痛まないで済む。

痛まないで済むことが、いちばん残酷だ。

翌朝、未提出者一覧の通知は「共有済み」と表示されていた。

共有されたのは情報ではない。

沈黙の順番だった。

高島は昨日の案内文を開き、句読点をもう一度見た。

手直しの必要はなかった。

必要がないほど整っていた。

整っているから、誰も悪くならない。

誰も悪くならない形で、人は消える。

そして、その形を自分が書ける。

――次に整えられるのは文章ではなく、人の価値だった。


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