■第5章「説明のある不安」:二話(納得という感情)
高島は「お願い」を開いた。
お願いは命令より強い。
断る側に、理由を背負わせるからだ。
文面は相変わらず丁寧だった。
「本学の社会的信頼を維持するため」。
「関係者の安全配慮の観点から」。
「誤解を招く可能性を低減するため」。
低減。
維持。
観点。
どれも正しい言葉だった。
正しい言葉は、反対の形を持たない。
高島は読みながら、頭の中で赤を入れた。
ここは主語がない。
ここは責任が消える。
ここは逃げ道が残る。
赤を入れる作業は楽しかった。
楽しいと感じた瞬間、胃の奥が冷えた。
楽しいのは、文章が整っているからだ。
整っているものを、彼は好きだった。
好きなものは、正しいと感じる。
正しいと感じたものに、彼は従ってしまう。
高島は資料を入れたフォルダを開いた。
島。
長崎県北東沖。
金栄座。
割当表。
区画図。
写真。
写し。
空白。
お願いの本文は、島の資料の扱いに触れていた。
「特定地域に関する資料は、所定の保管場所で管理してください」。
「外部媒体への複製はお控えください」。
「写真撮影はご遠慮ください」。
遠慮。
控える。
管理。
すべて柔らかい。
柔らかい言葉ほど、守らなかったときの罪悪感が重い。
罪悪感は、自分で自分を縛る。
縛られた者は静かになる。
静かな者は扱いやすい。
高島は気づいた。
これは島の話ではない。
自分の話だ。
翌週、学部の小さな説明会があった。
出席は任意だった。
任意は自由の形をしている。
自由の形をしていれば、出席した者だけが責任を持つ。
責任を持つ者だけが、黙る。
会議室は明るかった。
蛍光灯が均一に机を照らし、影が少ない。
影が少ないと、疑問が隠れない。
疑問が隠れないのに、口に出ない。
出ないのは、説明が先に来るからだ。
担当者は穏やかな声で言った。
「皆さまの研究を守るためのお願いです」。
守る。
守ると言われると、反対しづらい。
守られたいと思ってしまうからだ。
守られたいと思う自分がいる限り、反論は感情に見える。
感情に見える反論は、会議室では浮く。
担当者は続けた。
資料の取り扱いは、外部からの問い合わせ対応と連動している。
問い合わせが増えると、大学は守らなければならない。
守る対象は、研究者だけではない。
学生。
地域。
関係者。
社会的信頼。
守る対象が増えるほど、守り方は一つになる。
管理。
一元化。
手続き。
それは合理だった。
合理は、いつも正しい顔をしていた。
高島は頷いた。
頷くのは、理解できるからだ。
理解できるということは、相手の正しさが見えているということだ。
正しさが見える限り、反論は自分のわがままに見える。
わがままに見えると、研究費が遠のくことを知っている。
担当者が配った資料には、例文が載っていた。
「お問い合わせありがとうございます。
現在、当該情報は確認中です。
安全配慮の観点から、詳細はお伝えできません」。
例文は美しかった。
無駄がない。
攻撃性がない。
相手を否定しない。
相手を否定しないまま、相手を止める。
高島はその例文に、ほとんど感嘆してしまった。
感嘆したことが嫌で、視線を落とした。
視線の先に、ペンがあった。
高島は無意識に、例文を自分のノートに書き写した。
書き写す速度が速い。
速いのは、形が固定されているからだ。
固定された形は、覚えやすい。
覚えやすいものは、使う。
使うものは、体に入る。
体に入った言葉は、自分の言葉になる。
会議が終わり、廊下に出ると同僚が言った。
「まあ、仕方ないよね。
今はそういう時代だし」。
仕方ない。
その言葉は、選ぶしかなかったの顔をしている。
選ぶしかなかったと言えば、痛みは薄まる。
薄まった痛みは、納得に変わる。
納得は、行動を早くする。
研究室に戻り、高島は妻に電話をした。
父の施設費の請求が来ていた。
支払い期限が書かれている。
期限は冷たい。
冷たい期限の前では、理念は薄い。
高島は電話口で言った。
「もう少し、研究を続けたい」。
妻は少し黙ってから言った。
「続けたいなら、続けるしかないよね」。
続けるしかない。
その言葉が、会議室の言葉と同じ温度だった。
同じ温度は、安心になる。
安心になると、選んでいる気がする。
選んでいる気がすると、縛りは見えにくい。
高島は机に戻り、島の資料を所定の棚に移した。
移しただけだ。
失ったわけではない。
そう整理できる。
整理できることが、怖い。
高島は保管簿に記入した。
番号。
資料名。
保管場所。
署名。
署名欄の横に、注意書きがあった。
「運用上の必要が生じた場合、閲覧を制限することがあります」。
運用上の必要。
必要という言葉は、正しさの入口だ。
必要があるなら、納得する。
納得してしまう自分を、高島は嫌悪した。
嫌悪しながら、ペンを置く。
置いてから、紙の角を揃える。
揃えると、心が軽くなる。
軽くなることが、いちばん怖い。
翌日、実際に問い合わせが来た。
差出人は見知らぬアドレスだった。
件名は礼儀正しかった。
「貴研究室の調査対象について」。
本文も礼儀正しかった。
「島の件でお話を伺えませんか」。
丁寧さは警戒を鈍らせる。
高島は返信画面を開き、指を置いた。
指は迷わなかった。
会議で配られた例文が、先に浮かんだからだ。
「お問い合わせありがとうございます。
現在、当該情報は確認中です。
安全配慮の観点から、詳細はお伝えできません」。
送信。
送信履歴。
残っている。
残っていることが心強い。
心強さの理由が、内容ではなく形式にあることが分かる。
形式は正しい顔をする。
正しい顔は、罪悪感を薄くする。
薄くなった罪悪感は、仕事を回す。
仕事が回ると、生活も回る。
回ることは、正しい。
正しさの輪の中で、彼は呼吸をしている。
昼、学生が来た。
「先生、この件、取材ですかね」。
学生はメールを覗き込み、少し笑った。
笑いには怖さがない。
怖さがないから、危うい。
高島は言った。
「念のため、慎重に」。
念のため。
便利な言葉だった。
誰も傷つけない。
誰も責めない。
その代わり、誰も止めない。
学生は「了解です」と言って帰った。
了解は納得の形だ。
納得が増えるほど、反論は減る。
夕方、同僚からチャットが届いた。
「例のテンプレ、助かった。
うちも同じの使うね」。
テンプレ。
自分の送った文が、テンプレになっている。
形が固定される。
固定された形は、便利になる。
便利になると、皆が使う。
皆が使うと、正しく見える。
正しく見えると、逆らいにくい。
高島は画面を閉じ、目を閉じた。
目を閉じても、例文が浮かぶ。
浮かぶ言葉は、もう自分の中に住んでいる。
その夜、彼は島の写真を一枚だけ出した。
金栄座の前。
満員の観客。
看板灯が白く飛んでいる。
写真の裏に走り書きがあった。
「今年は人が多い」。
喜びの言葉。
同時に、管理の言葉。
高島はその二重の意味を理解してしまう。
理解できることが、彼を正しい側に留める。
留めるために、彼はまた納得を選ぶ。
選ぶしかなかったのではない。
選んだつもりになれれば、耐えられるだけだ。
翌朝、保管棚の鍵が新しいものに替わっていた。
鍵には番号が刻まれていた。
名前ではなく、番号だった。
高島は鍵を受け取り、重さを確かめた。
確かめる手つきが、慣れていることに気づいた。
慣れは、選択を見えなくする。
見えなくなった選択は、安心に似る。
安心は、いつも合理の味がした。
その鍵を回すたび、高島は自分の中の「許可」を確かめる。
確かめること自体が、手続きになる。
手続きになった感覚は、いつか感覚でなくなる。
――次に消えるのは資料ではなく、「送らない」という選択肢だった。




